馨の結婚(第二部)(19~27)(完)
第二十話 君が居ない
僕は十月に入る前に、原料輸出国での管理業務に異動になった。出立の前に催された“壮行会”で初めて、主要な役員の前で挨拶をしたけど、僕はどうやら歓迎されて迎えられ、期待を込めて送り出されるようだった。
会場の中に紛れていた父さんが、僕を取り囲む多くの役員に解放された時に、飲み物の入った紙コップを二つ持って現れる。
「どうだ、一杯」
「ありがとうございます」
中身はビールだった。父さんは何事かをめでたそうに笑い合っている役員さんを遠くに見ながら紙コップを傾ける。
「お前の仕事ぶりが真面目だと部長はご満悦でな、役員たちも一旦は安心してくれた。私としてはもう少し、事業全体を見通す目を早く身に着けてほしいが」
「そのつもりです」
僕が父さんを見ずにビールを飲んだ後にそう返すと、父さんは初めて仕事の場面で、僕に対して驚いたようだった。
社員や役員の僕に対する歓迎が、上辺だけの「跡取り」へのものか、僕の実力に寄せられた信頼にできるかは、これからの自分の働きに掛かっているんだと、僕は念じていた。
それから僕は二週間足らずの日々を、現地に赴任して何をするのかの引継ぎをしたり、自分なりに業務の見通しを立てておくなど、てんてこ舞いに日々を過ごしていた。そしてやっと出国の二日前になって、美鈴さんと二人で会う時間が取れた。
十月の十一日。日曜日だった。僕たちは思い出の喫茶店で待ち合わせをした。両親には、「出国前に東京を回ってきます」と軽く断りを入れた。母さんは僕の荷物を丁寧に確認しながら、「そうね、八カ月も日本を離れるんですもの」と言い、父さんは、「ああ、でも夕方には戻りなさい。まだ仕事が残っている」と言ったまま、書類から目を上げなかった。
午前十時の五分前に「喫茶レガシィ」が見えてくると、お店があるビルの前に、マスターらしき人が電飾看板を引っ張ってくるのが見えた。どうやらレガシィは開店が十時のようだ。店の前まで来ると、マスターはいつもと変わらずワイシャツの袖口だけをたくし上げて、ぴっちりと仕立てられた服に、腰から下だけのエプロンを掛けていた。僕は、こちらに背中を向けて腰を屈め、熱心に濡れ布巾で看板を拭っているマスターに声を掛ける。
「お久しぶりです、マスター」
その声に振り返ると、マスターは機嫌の良さそうな笑顔になって、「お!お待ちかねだよ!入って入って!」と僕を大急ぎで手招きした。僕はカラコロとドアベルが揺れるドアをくぐる。
「元気そうだね」
「おかげさまで」
「指環は大丈夫?革紐とか」
「あ、今のところ大丈夫です。革だから丈夫ですし」
「そっか」
そう言って、マスターは僕をいつもの席に通してくれた。何度も美鈴さんと過ごした店のはずなのに、僕はその時、なぜか彼女に出会った頃のように緊張し出した自分に気づいた。それは多分、しばらく会えなくなるから彼女をこれから自分の心に焼きつけようとしているからなのだろう。僕は壁の前で一呼吸置いてから、中を覗き込むようにして一歩踏み入り、少しだけ驚いた。
「あ、馨さん…おはよう…」
顔を上げずに美鈴さんは僕におはようを言った。それは彼女が落ち込んでいるからとも思えたかもしれないけど、僕にはすぐにわかった。その日の彼女は、ワンピースの上に厚手のベージュのカーディガンを羽織っていた。そして、僕たちが友達だった頃、初めて二人で出かけた時と同じように、髪の房を花冠のように編み込んでいる。
「おはよう」
そう返して僕は席に就いた。それから、どうやら顔を真っ赤にして、自分が考えていることが僕にわかっていないかと恥ずかしがっている彼女に、少し間を置いて僕はこう言う。
「やっぱり、可愛い。花冠みたいだ」
あの時言えなかったことが言えたなと思って、蚊の鳴くような声でお礼を言う彼女を眺めていると、マスターがお水を運んで注文を取りに来たので、僕たちはブレンドを頼んだ。
喫茶レガシィでは僕たちはマスターと思い出話なんかをして、いつものおさらいをするように過ごし、コーヒーを飲んだらすぐにお店を出た。
「じゃあ、海外赴任は大変だろうけど、頑張ってね。戻ってきたら、またおいで」
「はい、ありがとうございます」
マスターは美鈴さんの方を見ながら何か言いたげだったけど、美鈴さんは「ごちそうさまでした」と言って、すぐに後ろを向いて駅へと歩き出す。それから、僕たちは美鈴さんの家に向かう。
美鈴さんは僕と部屋に帰ってからは、あまり喋らなかった。僕も小さめの鞄を美鈴さんの居間の隅に置いて、クッションの上に腰を下ろしてからは言葉少なになり、ずっと糸口を探していた。
その日に美鈴さんが作ってくれたお昼のメニューは、オムライスだった。丁寧に炒められた具材の入ったチキンライスが、ぴかぴかの薄焼き卵に綺麗に包まれ、ケチャップでニコニコマークが描かれていた。
「うん、美味しい」
「うん」
僕たちが食事中に喋ったのは、それだけだった。それから、重く、そして張り詰めた時間がやってくる。
作品名:馨の結婚(第二部)(19~27)(完) 作家名:桐生甘太郎