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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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馨の結婚(第二部)(19~27)(完)

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そんな忙しいばかりの日々の中、九月になったある日、仕事が終わって自宅近くの地下鉄駅を降り、改札を出た時のことだ。僕は美鈴さんのことを考えていた。

彼女の大学院の合格発表はちょうどその日で、「仕事が終わったら連絡するよ」とメッセージした。電車の中では眠ってしまっていたので、スーツのポケットの中にあるスマートフォンを取り出し、美鈴さんに今からメッセージをしようと電源ボタンを押した。


「馨さん!」

急に僕は後ろから大声で声を掛けられ、慌てて振り向くと、地下鉄の通路を僕の居る改札前に向かって、僕に駆け寄って来る美鈴さんが居た。

「美鈴さん!」

僕も彼女の元へ走って行き、僕たちは二人で、地下の雑踏の中で向かい合った。僕の体の疲れは、もうどこかへ蒸発してしまったようだった。

「どうだった?」

僕がそう聞くと、彼女はウインクしてちょっと体を傾ける。

「ばっちし!」

「受かったんだ」

「うん」




僕たちはそのまま一緒に地下鉄に乗り、美鈴さんの家の最寄り駅まで向かった。僕の家の近くでは、美鈴さんが帰る時に大変だろうと思ったから。僕たちは二人ともちょうど夕食を食べていなくておなかがすいていたので、夜が遅くて開いているレストランもないけど、牛丼屋のチェーン店に入った。

お店の中は二、三人のお客がカウンター席に掛けているだけで、僕たちは四人掛けのテーブル席に就いた。夜の空気は店の正面のガラスを透かして店内いっぱいに広がっていて、一日の終わりにくたびれたようなお客と、お客が少ないのでのんびりとした店員のそれぞれに、僕たちは存在すら気遣われることもなく、二人の時間を楽しんでいる。

「あーおなかすいた。カレー早く来ないかなー」

美鈴さんはテーブルいっぱいに腕を広げて、ちょっと甘えた声で待ちわびている。僕は牛丼普通盛り、美鈴さんは大盛りのカレーライスに牛肉とチーズをトッピングして店員さんに頼んでいた。

「それにしても、相変わらずすごい量」

「だって美味しいものはたくさん食べたいじゃん」

そう言いながら美鈴さんは机の上に肘をついて、顎を手のひらに乗せる。その腕はとても細くて、彼女が着ているボーダー柄のロングTシャツからは、手首の骨がくっきり浮き出ているのが見えた。どういうからくりであれほどの食べ物を食べてもこの体型なのかと、僕は笑ってしまった。

今晩の美鈴さんはボーダーのシャツに、細身のオーバーオールを着て、ラフなサンダル姿だった。小柄な彼女にはオーバーオールの丈は少し長くなってしまっているように見えたけど、それがまた可愛らしい。

「おなかすいたなあ」とこぼしてお水のコップを両手で口へと運ぶ彼女は、実際より幼く見えるけど、僕に向けてくれる微笑みは、やっぱり僕の疲れを癒してくれる。


僕たちはそれから運ばれてきたメニューを食べ終えて、しばらくは僕の仕事の話、それから美鈴さんが大学院に進んだらどうしたいのかなどを、楽しく話し合っていた。でも、そのうちに話は途切れて、僕たちは黙り込む。

夏も終わって少しずつ暑さも薄れる夜中、美鈴さんは斜めにうつむいて、僕は、少し前に美鈴さんに送ったメッセージのことを思い出していた。


“あと少しで、海外に行く日どりが決まると思うんだ”


僕はコップにあと少しになってしまった水をひと口含んで、氷も溶けた冷たい水を喉に送る。冷えていく胸にちらと悲しみが湧いて、さみしさが染みていく。それから、ゆっくり口を開いた。

「来月の…十三日だと思う。その日に…」

美鈴さんは顔を上げなかったけど、首だけを僕の方に向けた。

「日本を、出るんだね」

「うん…」

「そっか」

僕は不安になった。美鈴さんを一人で日本に残していくことというより、そのことについて彼女が、なるべく僕に元気のない様子を見せまい、不安を口にすまいとしているように見えることが。僕の胸を不安が急き立てて、痛みや悲しみが言葉を急がせる。それなのに出てこない。僕はぐるぐる回りながらあちこち調べて回り、やっと一つだけ、彼女を慰められそうなものを見つけた。

「…でも、八カ月で帰ってこれる。それに、あと一カ月あるから、その間の休みの日に時間を作るよ」

そう言うと美鈴さんは「八カ月」に少し安心してくれたのか、顔を上げて、それでも力なく笑った。僕は彼女に本当の気持ちを言って欲しかったけど、なぜか、それを聞くと彼女を深く傷つける気がして、怖くてできなかった。僕は彼女の手をテーブル越しに取って、温めようとするように握る。

「さみしい思いをさせることになって、ごめん。僕も、君に会えないのはさみしい。でも、僕は仕事にかまけて君を忘れたりしない。僕はいつでも、まずはただ君の恋人で、その他のことは、そのあとだよ」

僕が美鈴さんを見つめてそう言うと、美鈴さんは切なそうに眉を寄せ、泣きそうになるのを一瞬堪えた。それからまた笑おうとする。僕は、「日本を出る前になんとか美鈴さんの気持ちを聞き出さなきゃいけないんじゃないか」と思っていた。

でも、彼女を悲しませない言葉、彼女が心を痛めない方法がわからなかった。だからその日は、「また連絡する。君の家で、二人で過ごそう」と美鈴さんに言って、僕たちは別れた。



僕は、僕と彼女の関係の中で彼女を悲しませることがあるとしたら、いつもそれは僕なんじゃないかと思う気持ちに心の底で悩まされていた。でも、それならなんとしても、僕がそれを拭わなければいけない。また彼女の笑顔がもらえるように。でも、今はそれをすることができない。だから、「変え難いものに僕たちの関係が飲み込まれて、消えてしまうんじゃないだろうか」と不安で、それから、美鈴さんが必死に堪えているんだろうことが心苦しかった。


僕はいつも彼女を元気づけて、安心させてあげるために彼女の近くに居たかったけど、これじゃあ彼女の助けになんかなれてないじゃないか。そう思って僕は強く自分を責めることしかできず、家に帰ってからは、憂鬱な眠りに入っていった。