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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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馨の結婚(第二部)(19~27)(完)

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それから美鈴さんは「はい、誕生日おめでとう」と言って、小さい包みを渡してくれた。「開けていい?」と僕が聞くと、「うん」と美鈴さんが返す。

濃紺の紙包みを開けると、透明なフィルムに包まれた、同じく紺色だけど少し浅めに染めた、ハンカチが出てきた。それは、縁の部分に、深い紅色と黄緑に近い線がプリントされていた。

「わあ、ありがとう」

僕がフィルムを剥がして、まだ糊の効いたハンカチを広げてからまた畳みなおしていると、美鈴さんは、「ごめんね、そんなに高いものじゃないんだけど…」と小さくつぶやいたので、僕は彼女の体を胸に引き寄せ、抱きしめる。


「君がくれるものなら、なんでも嬉しいよ」





僕たちはそんなふうに日々の喜びを分かち合い、二人で会うことも少ないけど、二人きりの時には喜びを交わした。

大学で三年次、四年次と進んで、僕たちは大学での最後の大仕事、卒業論文に手をつけていた。

僕のテーマは「タイムパラドクスの可能不可能についての数理的論証」、美鈴さんは「時間の無限の否定のための、無限の否定」だった。僕は苦手だった数学をあえて中心に据えて複雑な問題についての回答を与えようとし、美鈴さんは自分が取り掛かりたいと思うテーマについての、最初の一歩を踏み出したのだった。

僕は必死で綻びがないか見直して何枚も何枚も書き損じを破り、美鈴さんも同じように行き詰まっては進むのを繰り返しているようだった。そしてできあがった論文について、僕は教授から「難しいながらも努力した甲斐はきちんと見える」とそれ相応の評価をもらって、美鈴さんは優秀な成績として太鼓判を押され、僕たちは学校を卒業した。




「ぷは~っ!美味しい!」

目の前では、美鈴さんが喫茶レガシィのメロンソーダに向かって、解放感のある笑顔を浮かべている。僕はココアを飲んでいた。マスターのココアは、濃く、甘かった。

「やっぱり疲れた時には甘いものだよね~」

美鈴さんの前にある、背が高くて胴長の足つきグラスには、しゅわしゅわと泡が湧き続けて立ち上ってゆく真緑のメロンソーダがいっぱいに注がれ、白くてまあるいバニラアイスが重たそうに乗っかり、ちゃーんと真っ赤なサクランボも添えてあった。美鈴さんは脇にあった細長いスプーンに巻かれたナプキンを取り去って、スプーンでアイスをつつく。そしてそれを食べてまた「美味しい!」と言って、微笑んだ。

「美鈴さんは、やっぱり院に?」

「うん、だからこれからは受験勉強になるかな」

「そうなんだ、頑張って」

「任せなさい!」

美鈴さんは溶けたバニラアイスを唇の端にくっつけて、大胆にも親指を立ててみせる。彼女はまったくの研究者志望だから、もちろん大学院に行くみたいだ。まあ、あれほどの実力があれば心配はないと思うけど、と僕も思うけど、やっぱりここまではっきりと言い切れる彼女はすごい。

「アイス、はしっこについてるよ」

僕は自分の唇の、美鈴さんから見て同じところを指差した。すると、美鈴さんは慌てて脇にあった皺の寄ったナプキンを広げて口を拭う。

「ところで、馨さんはすぐに会社に入るの?」

「うん、明日からかな」

僕がそう言うと、急に美鈴さんがちょっと不安げな顔をしてこちらを見つめる。僕はちょっとうつむいて首を横に振り、ひと口温かいココアを飲んでから顔を上げ、彼女に笑った。

「最初は本社で研修から始まるし、あと半年は日本に居るよ」

「半年…」

やっぱり、彼女には「半年」は短かったかと思って僕も落ち込んだけど、美鈴さんの頭を撫でて、「忙しくはなるけど、必ず会いに行くから」と慰める。

「うん…」




僕たちはお互いに忙しかった。彼女は大学院の博士課程の受験勉強と、それから個人的にもう研究しているテーマがあるから、それを追うこと。それから僕は、「跡取り」だからと職場の仲間としては見てもらえず社員の全員から遠ざけられながら、社内研修や、各地の工場視察、そして経営の勉強、事業内容の勉強…。目の回りそうな毎日だ。

僕は車が苦手だから電車通勤なので、朝はとても早くに起きる。一日のスケジュールや仕事内容を確認したら食事をしてスーツに着替え、美鈴さんとメッセージで「おはよう」を言い合って、家を出て電車に乗り、会社へ。父さんには、「車が嫌いなんてつまらない男だ」と絶えず文句を言われている。

会社に着いたら作業内容を見直して、一日中それからは自分のデスクと部長のデスクや書類棚、あとはトイレとの往復。体中が凝り固まりそうなほど座ってばかりなのに、仕事が終わる夜の十時頃にはぐったりと力も入れることができず、僕は足を引きずり、また電車で来た道を戻る。

仕事はとにかく煩雑で膨大な量があって、一人が担うには潰されそうになるくらいだけど、僕は手を抜くことはしなかった。将来は社長になろうというのだから、仕事はもっと高度に、そして辛くなることくらい予想がつく。時に部長から、「もう少し力を抜いては」と持ち掛けられたけど、僕はそれをすることはできなかった。

そうしているとだんだん、僕のデスクの周りから少しずつ、心を許した励ましや労いをくれる人が現れることもあった。

「そんなに根を詰めていたら、この先もちませんよ」

「そうですね、すみません」

僕はそう言って、やっぱりまた仕事に戻った。そんな僕の様子を見てみんな困っていたり、少し心配だったみたいだけど、僕は本当なら、同じ部署の人のように部長に酷く叱られたり、朝早く来て掃除をしたりしているはずなのにと、物足りなさまで感じていた。「跡取り息子は慎重に扱わないと」。そういう計らいなのか、僕は朝の掃除は免除され、部長に怒鳴られることはなかった。

みんな勘違いをしていると、僕は思っていた。これから僕は、「この会社で一番仕事が良くできて、一番行動の早い人間」である、「社長」になろうというのだから、いくらでも覚えることはそれこそ山積みなのに。そう思いながら僕は、仕事場というもののルールや暗黙の了解を少しずつ飲み込み、あとは黙々と、自分が今持っている仕事の精度を上げることにひたすら注力した。