馨の結婚(第二部)(19~27)(完)
僕は今、我が母を、仇のような思いで見つめている。血が沸騰している。収めなければ。そう思っているのに、僕は止まらなかった。僕は母さんが腰を掛けている鏡台の前に迫る。
「まあ!何よ、ノックもしないで!それから、もっと静かに呼んでちょうだい!何をそんなに怒っているの?」
母さんはそう喚き立てているけど、僕はもうそんなことはどうでもよかった。怒りを抑えながら、僕は叫ぶ代わりにまず低い唸り声を出した。
「…今日、彼女の家に行ったんですね。そして僕と別れろと言って、彼女を詰ったんでしょう…そうでしょう!…なんてことを、なんてことをしてくれたんですか!彼女をひどく傷つけてしまったではないですか!どうして母さんはそんなことをするんです!?そんなに僕が言うことを聞くいい子であることを望むなら、僕はあなたの子供でいるのを拒否します!この家を出て行きます!」
空気が大きく振動して割れ、そして総毛立つような僕の怒りが、母さんの部屋にぶちまけられた。僕は人生で初めて怒鳴り続けたので、息を切らして母さんを睨み続けていた。母さんは、僕が結局我を忘れて怒鳴り散らしたことにも動じないで、立ち上がって僕をどこか哀れむような目で見た。
「…馨、貧乏人はやめておきなさい。大体がその心も貧しく、どこか歪んだものですよ」
「…なんだって…?」
僕は膝から崩れ落ちたい気分だった。「この人と理解し合うのは絶対に無理だ」と、よりにもよって母親について確信してしまったんだ。それに、僕の言うことをわかってもらえないなら、美鈴さんとの結婚なんか、夢のまた夢だ。
僕は、握りしめていた拳を解き、そして後ろを向いた。そこには厳しい目をした公原さんが居た。僕はうつむいて、彼の視線なんかかまわなかった。ましてや、彼の意志なんか、どうでもよかった。
「…一人にして下さい…公原さん、今晩だけは、部屋の外に椅子を置いて下さい…どうせ、どこにも行きやしませんよ…僕には今、泣くことくらいは必要なんです…」
か細くなった僕の声は揺れていた。公原さんはどこか僕のことを可哀想と思ってくれているのか、「そう致しましょう。ご入用のものがございましたら、お声掛け下さい」と言って、僕を連れて部屋の前まで歩いていった。僕はその背中から目を離さず、そしてポケットの中のスマートフォンを出して大人しく公原さんに渡して、自室の扉を閉じると、内鍵の掛け金を久しぶりに下ろした。
もちろん僕は、そのままベッドに泣き伏したりはしなかった。
まず僕は、なるべく音がしないように気を付けながら部屋の隅のガラス戸棚を開けた。その中に飾られていた、曾お爺様の持ち物だったという銀時計を迷わず掴み取って、テーブルの上に置く。それからコートとマフラー、学生時代に着ていた服と、履かなくなったスニーカーなんかを、手に当たるものから選び取って、急いで身に着ける。最後に、自分の実印を引き出しから取り出し、大学の卒業名簿をダンボール箱から引っ張り出してきて、それらを銀時計と一緒に大きな肩掛け鞄に詰めると、ゆっくりと窓を開けた。
窓の外、ちょうど腕を伸ばして届くくらいの距離に、下に見える庭に生えた、古い杉の木が立っている。それはもちろん頼もしい太さではあったけど、地面まではどう見積もっても6メートルはあった。掴まり切れずに落ちれば、ただでは済まない。僕はじっと杉の木を見つめる。その時、彼女の泣いている顔が思い浮かんだ。
僕は躊躇せず、窓枠を蹴った。
木の傾いでいる大きな音だけは立てないように、やっとの思いで捕まった杉に抱き着きながら、僕はじりじりと降りていって、僕の部屋の真下にある居間の窓を確認した。大丈夫だ。この時間ならもう公原さんはカーテンを閉めて回った後だ。僕は少しだけしめしめと思って、そのままゆっくりゆっく、り音を立てないように庭の土に足をつけた。
そして誰にも見られず、止められることもなく庭を過ぎて、僕は家の門を出てから、質屋か貴金属店を探して走り回った。外は寒いので、マフラーとコートを身に着けてきて良かった。
作品名:馨の結婚(第二部)(19~27)(完) 作家名:桐生甘太郎