馨の結婚(第二部)(19~27)(完)
第二十五話 脱走
僕には何日かの間、公原さんが見張りとしてついていた。財布やスマートフォンなどは、僕が眠る時に公原さんが持っていってしまい、僕は美鈴さんに“おやすみ”が言えなくなってしまった。
公原さんはいつも電話を取ったり客間で人をもてなしたりしていたし、家に居る全員が食べるものを決めたり、僕たちが使う品物の残りをいつも確認していた。それから、メイドの山田さんや楠さんに僕たちが希望する仕事の指示を出したり、家のお金の管理もしてと、毎日仕事が多かった。だから、一番重要な働き手である公原さんが、夜だけだけど僕一人に掛かり切りになった形だ。さぞやメイドの楠さんや山田さんなどは仕事が増えただろうと思ったし、何より僕は、僕が眠ってからでないと公原さんが部屋を出てくれないので一人で休むことができず、疲れの素になった。
公原さんは僕の部屋の隅に、自室で使っていた一人掛けの古いソファを持って来て、そこにずっと座っていた。そうして本を読んだりお茶を飲んだりしていて、僕にもいつも必ず、「すみませんが、お茶を頂きます。若様もいかがですか」と分けてくれようとしたけど、僕はそれをもらう気には到底なれなかった。公原さんが、今度は父さんではなく、母さんの「手先」になっただけのことだったからだ。
「公原さんは、母さんの考えがおかしいとは思わないんですね」
ある晩僕は、ベッドに入るついでに、公原さんにそう聞いた。公原さんは僕の部屋を出る支度のため、ティーセットを片付けていた。公原さんは、「別段おかしいとは思いません。ですが、若様にそれをご理解頂くためには、時間が必要であることもわかっています」と返事をした。まあ、“僕にとっては辛いことだけど、あとになればわかるだろう”という見当なのだろう。それから公原さんは、「申し訳ございませんが、お預かりするだけですので」と言って、僕の財布とスマートフォンを持っていってしまった。
この家は、やっぱりどこかおかしい。僕は、自分もその家の一員であるはずが、そう感じていた。どうしてだろう。その時はそれが不思議だったけど、仕事で疲れていたので、すぐに眠ってしまった。
ある朝僕は、いつものように仕事に出かけた。美鈴さんにメッセージは送ったけど、まさか今こんな状態だなんて言えないから、どうしても最近は短い朝の挨拶だけになってしまう。彼女はそれにいつも通り返事をしてくれて、僕を励ましてくれる。僕はそれに後押しされて会社に向かった。
その日家に帰ると、母さんは不気味なくらい上機嫌だった。僕をお茶に誘ってくれて、母さんは機嫌もよくなんでもないことを喋り続け、そして一緒に食事もした。
「母さん、今日はいいご機嫌ですね」
僕は、食事室でテーブルを挟んで母さんにそう言った。もしかして、こんなに機嫌が良いなら、美鈴さんの話を飲み込んでもらえるんじゃないかと思った。母さんは「ええ、とても」と答えてくれたけど、そのすぐ後でまた下を向いて、食事に夢中になっていしまったように見えた。僕は、母さんを刺激するのは得策ではないと思うと、その先を話すことはできなくなってしまい、結局自室に戻るまで、母さんに話しかける隙はなかった。
自分の部屋に戻ると、僕は公原さんが来る前にスマートフォンの電源を入れてみた。母さんの前や、公原さんの前でこんな素振りをすると、大変なことになる。すると、美鈴さんから一件のメッセージがSNSアプリに来ていた。どうしたんだろうと思って開いてみて、僕は驚愕で動けなくなってしまった。
“今日、馨さんのお母様が私の部屋に来ました。私たちは話してみたけど、私はあなたとお別れするほかありません。ごめんなさい。私に悪いことをしたなんて考えないでね。それでは、さようなら。”
…どういうことだこれは?
僕はスマートフォンを握っているのかいないのかわからないように、ショックで感覚が一瞬わからなくなった。
でも、ここに書いてある通りなら、多分母さんは今日美鈴さんの家を訪れて、一方的に僕と別れるように迫ったんだろう。そして、美鈴さんが何を言おうとしても聞いてくれず、「とにかく許せないから別れろ」といったようなことをぴしゃりと叩きつけて、そのまま帰ってきてしまったに違いない。
少しずつ冷静さを取り戻してきた時、僕の中では、怒りだけが少しずつ湧き出していた。なんてことだ。なんてことをしてくれたんだ。
僕はスマートフォンの画面を見つめた。そこには、彼女がなるべく淡々と書こうとしたメッセージの隙間から、悲痛な絶望が見えた。彼女はきっと、泣きながら、自分の命を自分で絶つような思いでこの文章を打っていたに違いない。それがどんなにか辛いことか。そう考えていると、僕の踵は知らぬ間に翻り、両足はもう母さんの部屋を目指してずんずん進んでいた。家の中の景色はまるで燃え盛っているように、僕の怒りに染められ、素早く飛び去っていく。途中で公原さんとすれ違ったけど、僕は自分に向かってくる彼を押しのけて、母さんの部屋の扉を開けて叫んだ。
「母さん!」
作品名:馨の結婚(第二部)(19~27)(完) 作家名:桐生甘太郎