馨の結婚(第二部)(19~27)(完)
ココアは甘く、クリームのまろやかさとカカオの香ばしさが溶け合い、疲れを癒してくれた。僕は祝賀会でお酒を飲まされたし、ちょうど甘いものが欲しかったところだ。
「んー、でも、ちょっとおなかがすいたなあ」
僕がココアを何口か飲んで独り言を言った時、美鈴さんはもうあの頃の、僕を気遣う優しい顔に戻っていた。
「マスターのカレー、美味しいみたいだよ?食べてみる?」
「そうだね、ここで食べ物って頼んだことなかったけど…」
「私も実は、まだ晩ごはん食べてなかったの。馨さんと食べようと思って…」
「そうなんだ。じゃあ、カレー頼もうか」
相談が済んでマスターに改めて注文をすると、しばらくして黒胡椒の刺激的な香りと、お肉の美味しそうな匂いが喫茶店に漂い始めて、やがてマスターが丁寧に作った“こだわりビーフカレー”が二皿分運ばれてくる。それは、綺麗な装飾が縁に施された銀色のお皿で、炊き立てのお米に、焦げ茶色のルウが掛けられていた。
「ありがとうございます、いただきます」
「はいどうぞ召し上がれ~」
見たところ具材は煮込まれ続けて溶けてしまったようだけど、これは期待できそうだ、という深みのある香りがして、僕はスプーンでひと口すくって口に入れる。
「…ん!」
「ん~!」
僕がスプーンを咥えたまま驚いて、美鈴さんは体をくねらせて喜んだ。すごく美味しいビーフカレーだった。野菜の甘み、肉の旨味、ルウの香り、どれをとっても申し分のない、美味しいカレーだ。
「美味しいねえ!」
「うん!すっごい美味しい!」
それから、あっという間に二人でビーフカレーを食べたあとでマスターがお皿を下げてくれたけど、その時、「ごめんねえ、申し訳ないけど、そろそろ閉店だから」と言われた。僕たちは「ごちそうさま」を言って会計を済ませ、店を出る。
「どこ行こう?」
「そうだね、僕は明日の朝までは体が空いてるから」
「じゃあ、私の家、かな…」
電車に乗る時、美鈴さんは「新しい部屋には馨さん来たことないから、案内するね」と言った。美鈴さんが引っ越しをしたことは、SNSのメッセージで聞いていた。僕たちは地下鉄で、元の美鈴さんの部屋に向かう下り路線ではなく、上り路線に乗って、さらに一度乗り換えをした。
美鈴さんの新しい部屋は、六階建てのマンションの一室だった。古びてしまったエレベーターのボタンで三階のボタンを押して、彼女の住む305号室に向かう。ドアを開けるとやっぱり、百合の花をミルクに溶かしたような、爽やかで落ち着いた、美鈴さんの部屋の香りに包まれた。
前よりも少し広い2DKの玄関を開けてキッチンを過ぎる。奥にある五畳ほどの部屋に進むと、隣は寝室のようで、前と変わらないベッドとローテーブルが見えた。五畳の部屋は勉強部屋みたいだ。でも、机は新しくなっていて、大きな書棚と引き出しが付いている。その机の上には様々な文献が研究のために並べられ、何枚も何枚も、走り書きをしたレポート用紙が散乱していた。
「広くなったね。勉強机、買い直したんだ」
「うん。院での基礎的な課題は終えたから、それでちょっと勉強は落ち着いたけど、今度は研究の課題を絞るためにね、勉強したりアルバイトしたりで、時間ない!」
彼女はそう言って笑った。その笑顔は、「喫茶レガシィ」の明るいランプの前では気づかなかったけど、本当ならずいぶんと大人びている年齢のはずが、前と少しも変わらずに、活き活きと輝いているのがわかった。
「…変わらないね」
僕は革のビジネスバッグを部屋の隅に置き、美鈴さんを振り返る。
「うん?」
「綺麗なままだ、美鈴さんは」
そう言うと、彼女は急に顔を赤くした。そして立ったままで僕を可愛らしく睨む。
「…馨さんも、照れ屋なのに、そういうことだけははっきり言うとこ、変わらないね」
そう言って彼女は僕を抱きしめてくれた。
僕たちは互いの距離を縮めるのに躍起になって、真っ暗な夜の中、隙間を埋めるために何度も抱き合った。
作品名:馨の結婚(第二部)(19~27)(完) 作家名:桐生甘太郎