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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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「先輩のお下がりなんですよ。なんかあれで人轢いたらしくて、ほとぼり冷めるまでお前乗っとけみたいな」
「なんじゃそら」
 中村は、作業台に半世紀は放置されているようなコーヒーカップを持ち上げた。出しっぱなしのコーヒーメーカーの左右には、ブレーキクリーナーと潤滑剤の缶が並ぶ。一度ぐらいは、間違えてブレーキクリーナーを飲んでいそうだ。橋野がそう思いながら見守っていると、中村は真っ黒に煮詰められたポットの中身を再加熱し、コーヒーカップに移して一口飲んだ。その時、LPガスらしいメリハリのないエンジン音が表から聞こえてきて、橋野は入口に視線を向けた。寄松、通称『フランケン』。命名したのは田島だったが、顔の四角さと背の高さからそう名付けただけで、寄松の脳みそには確固とした意志があり、フランケンシュタインのように朴訥とはしていない。中村と同い年で、短気なところもよく似ている。
「おー、黒タクやんけ。どないした」
 中村が言うと、フランケンは百万回聞いても聞き慣れない言葉のように顔をしかめた。少しだけ進路を塞いでいる坂間の椅子を力任せに蹴って、坂間が椅子ごと飛び退くのと同時に、中村に言った。
「磨くやつ貸して。当て逃げされた」
 中村がウエスとコンパウンドを差し出すと、フランケンはきびすを返して、外に出て行った。
「いかついおっさんやな」
 坂間の声が震えるのは珍しいことではないが、フランケンにちょっかいをかけられたときは、ひときわ酷かった。田島は、傷一つないように見えるタクシーを振り返りながら、言った。
「当て逃げか。見栄張りよって。わがで当てたんやろ」
 橋野だけが、田島の言葉に笑った。フランケンはこれから、ラーメン屋で凍ったチャーシューが浮かぶ味噌ラーメンを食べるのだろう。中村が坂間を庇うように言った。
「儲からんらしいね。最近強盗も多いから、ビビりたおしとるわ」
「強盗ですか?」
 戸波が聞き返すと、コーヒーを飲みながら中村はうなずいた。
「ちょいちょい、事件が起きとる」
 そこから、自分達が住んでいる町がまた危険になりつつあって、それが昔はもっと酷く、どうやって生き抜いてきたのかという、中村の昔話が始まった。一コマ、約一時間。橋野は、一旦トイレに立った中村の後ろ姿を見ながら、田島に言った。
「帰るわ」
「おう、今の内やぞ。行け」
 田島が背中を押し、橋野は店の外に出た。ラーメン屋の一番奥の席で、鉢を抱え込むような姿勢でラーメンを食べているフランケンが見えた。三人が見送るように振り返っていて、橋野は自分に期待されていることを悟り、タクシーのリアバンパーを蹴飛ばした。
 家までの道を急ぎながら思う。ここで帰るから、いつも三人と一人なのだと。ロープで左右に同じ力で引かれているような、どっちつかずの状態。がらんとした車庫、いつでももう一台車を置けるように奥にどかされた自分のグラストラッカーと、もう一台置けないぐらいの位置に停められた、直弘のスクーター。悪気はないだろう。今頃、おそらく食卓にもついている。橋野がガレージから家に上がると、夕刊を右手に持つ父の元治と目が合った。
「おかえり」
 黒縁眼鏡に、猫背。誰とも戦えそうにないし、戦うようには作られていない。元治は、橋野の額に浮かぶ汗に気づいて、言った。
「走ってきたんか。ちょうど良かった、メシできたとこや」
 まだ直弘がいない食卓に座ろうとすると、母の直美が言った。
「うがいしてきてよ、外におったんでしょ」
 うがいを済ませて戻ると、直弘が座っていた。
「おかえり、田島さんのバイク動いた?」
 不肖の兄と、有望株の弟という待遇の差はあるが、橋野はざっくりとした予定を伝え合うぐらいの関係を、直弘と保っていた。
「動くとこまでは見てない」
「あの汚いバイク屋、行ってきたんか」
 元治が言うと、直美が思い出すのも嫌なように、顔をしかめた。
「智樹、あの辺はほんまに治安が悪いから……」
 これは、食卓ではないのか? 橋野の頭に、素朴な疑問が浮かんだ。裁判のために被告席が用意されていて、食事が並んでいるのは偶然なのだろうか。直弘が言った。
「田島さんがおったら、大丈夫やって」
 橋野は、直弘を睨みつけた。その通りだが、お前の口からは聞きたくない。掴みは上々。料理よりも早いスピードで、食卓の空気は冷えこみつつある。橋野兄弟は、父である元治から二つの特徴を受け継いだ。弟は理論的な頭脳、兄は低身長。そこそこの頭に、そこそこの身長という風には、分けられないらしい。母から受け継いだのは、甘い顔立ち。直弘ほどの背があれば武器になるが、小柄だと、他人からすれば痛めつけようと考えるきっかけの一つにしかならない。その効能は、中学校のときに充分味わった。
「戸波は、人轢いたセルシオに乗ってる。保険もなんもないらしいわ」
 できることは一つだけ。それは、自分が冷蔵庫の役割を果たすことだ。二月に外がいた方がマシだと思うぐらいに、この場を凍り付かせる。橋野が黙って空気の温度を確かめていると、直美が言った。
「乗ったん?」
「乗ってないよ。歩いて帰ってきた」
 橋野が言うと、直美の安堵した顔を中心に、少しだけ食卓の温度が戻った。実際、完全に凍り付かせる覚悟は、こちらにもない。橋野が辛抱強く待っていると、元治が小さく息をついて、箸が誰ともなく持ち上がり、食事が始まった。
 部屋に戻ってヘッドホンで両耳を塞ぎ、プロディジーのアルバムを聴いていると、アクションレーダーに差し掛かった辺りで、携帯電話が鳴った。大きく表示された『田島』の名前と、バンディットの写真。橋野は片耳をヘッドホンから外して、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「おー、どやった? キレられんかった?」
「橋野家的に、キレるとかはない。すでに判決の出た裁判で、また裁かれた感じ」
「きっついなそれ。いや、さっきようやく解放されてや」
 橋野は思わず壁の時計を見上げた。午後八時半。三時間近くも話を聞いていたことになる。昔話ではなかったのか、それか特別に三コマあったのか。
「えらい長い時間かかってんな。フランケン帰ってきたとか?」
「いや、足形残ってんの気づかんと行きよったで」
 田島の言葉に、橋野は笑った。しばらく二人で笑った後、田島は言った。
「いや、バイトの話。今までもヤバイのはあったけど、今回のはでかそうや」
『でかい』のか、『ヤバイ』のか。それが重要だと、橋野は思った。片耳で叫んでいるキースフリントの声が邪魔になり、ヘッドホンを外すと、椅子からベッドに移動した。
「でかいんか、ヤバイんか、どっちよ?」
「両方かな」
 頭の中で話を整理している田島の次の一言を待ちながら、橋野は考えた。田島は、人の頼み事を断れないタイプではない。どんな誘惑があっても、自分がそうしたいと思わなければ、首を縦に振らない。それは、数年前の文化祭の日に証明された。
   
   
二〇〇二年 十月 十八年前
   
作品名:Split 作家名:オオサカタロウ