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戸波は納得したように、うなずいた。坂間もその話題から遠ざかるように、廊下を歩く他の生徒たちに目を向け始めた。坂間は体育会系そのもので、力も強い。しかし、二歳下の弟と兄弟喧嘩を散々繰り返してきた経験から、荒っぽいことになった時は力を加減している。自分の主張は通すが、大怪我をさせることはない。戸波は体が大きいだけで、力加減は知らない。自分の主張よりも、相手の大怪我を選ぶ。田島は、残り二分になった休憩時間を最大限生かすように、深呼吸した。わいわい騒いでいる声と、あちこち行ったり来たりする顔。自分も含めて、いずれ同じ年に成人する。
二十歳になる頃には、こうやって相変わらず、三人でどこかの窓枠にもたれかかっているのだろうか。
二〇〇六年 二月 十四年前
錆びついた『中村屋』の看板。隣は凍ったチャーシューをそのまま放り込むラーメン屋で、客はいつも固定。よほど舌が馬鹿か、店主に弱みを握られて、脅されているのか。そんなことを考えながら、橋野がダウンジャケットの中に入り込むように肩をすくめていると、車高を落とした八九年型のセルシオが角を曲がってきて、中村屋とラーメン屋を少しだけやり過ごしたところで、真っ黒なだらしない図体をのろのろと路肩へ寄せた。少しでも後ろに下げると、そこはラーメンを食べにくる『フランケン』のタクシーが停まる定位置だから、見つかったら確実に怒鳴られる。運転席から降りてきた戸波が言った。
「ごめん、お待たせ」
車が微かに揺れ、運転席側に乗り移って降りてきた坂間が言った。
「先に寄せんなや、降りられへんやんけ」
後部座席のドアが開き、最後に降りた田島が言った。
「しょーもない喧嘩すな。ハッシー、だいぶ待ったんちゃう?」
「いや、大丈夫。てか店も開いとらん」
中村屋の真向かいのブロック塀に四人並んでもたれかかり、坂間が煙草に火を点けた。戸波が続いてポケットを探ったが、持ち合わせがないことに気づいて、坂間から一本を借りた。田島は、橋野に言った。
「何時?」
「五時、ぼちぼち暗くなるな」
橋野は腕時計に視線を落としながら、それがとんでもなく都合の悪いことのように言った。田島のバイクが修理されて、今日引き取れるはずだった。工賃は先払いで、田島はバイト代の半分を残りの部品代用に下ろしてきたはずだ。愛車が息を吹き返す瞬間を見たかったが、途中で帰る羽目になるかもしれない。ただでさえ、自分の居場所は用意されていない家。夜遅くに帰れば、その居場所はさらに小さくなる。実家は二階建てで、それなりに年季の入った壁はやや汚れが目立つ。そして、がらんとした車庫。父親は、化学研究所で研究員をやっている。車には全く興味がなく、二台入る車庫付きの家なのに、移動以外の目的を与えられていない古いアルトと、橋野が安く手に入れた廃車寸前のグラストラッカー、そして、弟のスクーターが置いてあるだけだった。二十歳になった今、免許は既にあるし、今年中に中古車を買うぐらいの金は貯金できるだろうが、二台のバイクの内、一台をどけないと停められない。弟の直弘は三歳下で、反抗期らしい反抗期は訪れなかった。中学校に上がってすぐに化学の奥深さと素晴らしさを知り、父親が師と呼ぶに相応しい知識の持ち主で、自分が疑問を持ったことには何でもすらすらと答えることができると気づいたからだった。不肖の兄である橋野自身は、親の期待を弟に全て預けたつもりで、何事もほどほどにこなし、私立高校に推薦で入った。制服は情けないベージュのブレザーだったが、男子校は気楽だった。一年生の時、田島と出会った。背がひょろりと高く、苦虫を噛み潰したような顔をしている。その剣呑な態度から、『不良』なのだと分かった。あまり人と話そうとしなかったし、誰も近づこうとしなかったが、席が偶然隣り合わせだった橋野とは、話すようになった。田島は見た目こそ怖いがあまり人の話を聞いておらず、オリエンテーションの時は橋野が力を貸さないと、椅子から体を起こすことすら難しそうだった。田島にとって第一志望の高校でないことを知ったのは、文化祭の準備をしていたときだった。講堂に大きく掲げられた校章を睨みつけながら、田島は言った。
『ハッシー、推薦なんやっけ?』
『そうやで』
『俺も最初からそうしといたら、好きになれたんかもな』
その時田島は、初めて中学校時代の話をした。どちらかといえば不良だったが、学区で三番目の公立高校には手が届いていた。話していても思うが、機転が利くし、頭の回転が速い。橋野は当時のことを思い出しながら言った。
「あんま遅くなりそうやったら、先に帰るで」
「写真送るわ」
田島は口角を上げて笑った。それが真顔に戻る直前、大きな咳払いが響き、四人は同時に音の方向へ目を向けた。セルシオの車内を覗き込んで、わざとらしく顔をしかめている、小柄な男。
「路駐、一点減点! ガラの悪い車やな、誰のじゃ」
『中村屋』の店主である、中村充。橋野と同じで小柄だが、横にやや大きく、その手の早さと短気さは、数々の目撃証言や、尾ひれのついた伝説から証明されている。五十二歳で、元暴走族だという噂から、四十人規模の乱闘を『やかましいんじゃ』の一言で解散させた逸話など、挙げていけば一晩では終わらない。バイク好きなのは確実で、橋野のグラストラッカーを見た時は、その状態の悪さに顔をしかめながら『大事にしたれよ』と言った。中村は四人の目の前に来て、言った。
「開けるさかい、ちょっと待っとってや」
戸波は自分の車だと答えるタイミングを逃して、田島の方をちらりと見た。実際には、誰の車かなど、気にしていない。田島は自分の考えを目で伝えようとしたが、戸波は少しだけ不安が残っているように、俯いた。中村は気まぐれだ。交流が生まれたきっかけは、坂間だった。値札のついていないヤマハジョグが、店の軒先に置いてあるのを見つけた坂間は、スーパーブラックバードのカウルを磨いている中村に話しかけた。『それは俺の私物』と言われ、坂間は『いくらですか?』と聞いた。『おもろいやっちゃな』と返ってきて、バイクの話になった。この付き合いは四年に渡る。中村屋は時折、単発の『バイト』をくれる。高校を出てふらつきかけていた田島を、一時は雇っていたぐらいだった。田島が待ちかねていると、中からシャッターが開き、こじんまりとした作業スペースが姿を現した。田島のバンディットが鏡のように磨き上げられていて、橋野は、田島より先に自分が笑顔になっていることに気づいた。
「蘇ってますね」
「やろ」
オーナーと話すように、中村は橋野に言った。田島はオーナーらしく、他の三人とは全く異なる距離感で、自慢の愛車を間近で眺めた。スターターの交換だけで、息を吹き返した。部品代を手渡すと、田島は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「怪我だけは、気いつけよ」
中村はそう言って頭を左右に振り、首を鳴らした。その首は、どこに骨があるか分からないぐらいに、短い。
「橋野くんも、壊れそうになったら、すぐうちに言いや」
橋野は小さくうなずいた。中村は戸波に言った。
「自分は四輪やな。あのセルシオ、高かったんちゃうの」