Split
すぐに思い浮かんだのは、藤川の顔だった。前髪が眉にかかっていて、自分でも迷惑なように、よく瞬きをしていた。華崎が死んだという事実を真っ先に共有したい相手は、少なくとも田島ではなかった。自分の飲み込み方が正しいのか、それを一秒でも早く確認したかったが、その相手はいない。事実は二つあって、片方は自分と田島だけが共有している。アナウンサーは、華崎佳代が父親の運転する車で、事故に巻き込まれて死んだと、伝えている。当然だが、あの運転手が目的を果たす中で、計画に巻き込まれた可能性については、触れていない。レッカー車に乗せられた、フロントが大破したスカイライン。映像には、あのナンバープレートが映り込んでいた。次の日の朝には、タクシー運転手が滅多刺しにされて死んでいるのが、港で見つかった。現金が盗られており、アナウンサーは強盗目的と言った。橋野は、テロップに『フランケン』と流れることを一瞬だけ期待した自分に、笑った。
橋野自身の『脱出プラン』は、それだけが周囲と切り離されたように、着々と進んでいた。不動産屋の案内した四つ目のワンルームが、残りの大学生活を支える拠点に決まりそうだった。私物の少なかった自分の部屋は、荷物をまとめるとさらにがらんとして、元治が何往復かすれば運べると言い切った。二週間ほどかかるが、春休みに入る前には引っ越しが終わっている。一旦歯車が動き出すと、全員がその予定で前から計画を立てていたように、事は進んだ。
大学には、顔見知りはいても、友達と呼べる人間はいなかった。人の事は言えないが、身の守り方を覚えてから顔を合わせた相手というのも、あるかもしれない。どうしても、自分の安息を確保する方を優先してしまう。橋野は、落ちていく西日がついに棟に遮られて、自分の影が消えたことに気づいた。立ち上がった時、携帯電話が鳴った。橋野は、グラストラッカーの鍵を取り出したが、結局ポケットに戻してから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
頭の中で、『大丈夫か?』と続いていたが、声に出さなくても伝わっただろう。ノアの車内で話したのが最後で、メールですら連絡は取っていなかった。田島は言った。
「今日、ヤマギノで会えるか? 七時ぐらい」
「いけるよ」
緩やかに途切れつつある、過去との接点。今となっては、自分から進んで、その細い線をそっと踏みつけ、消そうとしているようにも感じる。橋野が言葉を待っていると、田島は短く『ほな』と言って、電話を切った。グラストラッカーに跨り、ヘルメットを被った。手が震えていて、上手くいかなかった。中村屋の仕事以来、死は常に近くにいた。その覚悟は、常に見守っていないと、たちまち掠れていく。橋野は、直弘に『友達と会うから、晩御飯は食べて帰るって、言っといてくれ』とメールを打った。本当のことのはずなのに、その文章の中で嘘をついていないのは、晩御飯を食べて帰るという部分だけな気がした。
通学路と産業道路が折り重なる、やや人手の多い場所。人が仕方なく通る道の真ん中に、ヤマギノは店を構えている。赤いのれんが風で揺れていて、自転車の隣に田島のバンディットが停まっているのが見えた。道の反対側にグラストラッカーを停めると、橋野はのれんをくぐった。山城が厨房から『いらっさい』と言いながら笑いかけて、真新しくなったガラスをちらりと見た。二年前に、他校の生徒と喧嘩になった橋野が割って弁償したもので、田島は店の前で警察沙汰になったこともあった。そんな二人がテーブル席に座っていること自体が心臓にダメージを与えているように、山城は新しいお冷を持ってくると、橋野の前に置いた。
「スティンガーください」
首をすくめながら橋野が言うと、山城は小さくうなずいて笑顔を見せた。橋野は、向かい合わせに座る田島に言った。
「食わんの?」
「もう頼んだ」
田島はお冷を一口飲んだ。橋野は同じ動作を真似ると、唐辛子を乾煎りし始めた山城の後ろ姿を盗み見た。視線を前に戻して、言った。
「どうしてた?」
「港の周りとか、うろついてた」
田島は、口角を上げて笑った。橋野は目を逸らせた。本来、どこまでも遠くに走り去っていなければならない存在のはずだ。
「お前、俺には近寄るなって言ってたやん」
橋野は、そう言った時、田島の表情が少しだけ曇ったことに気づいた。それは今でも、最もやってほしくない行動の一つらしかった。
「お前はな」
田島がそう言った時、山城が手を滑らせてフライパンで大きな音を立てると、二人の方を見て、手で『ごめん』とジェスチャーをした。橋野は小さく頭を下げて応じると、田島に向き直った。
「俺より、お前の方が危ない」
「かもな」
田島の顔に一瞬だけ、不安が覗いた。その口調から、橋野は話題に出そうと考えていたことのほとんどを、一旦頭から消した。田島は、華崎が死んだということを、共有できない唯一の相手だ。お互いが同じ認識を持っているのは、間違いない。だから、名前を出すこと自体が間違っている。
「家が決まった」
橋野が言うと、田島は、それがここ数日で聞いた唯一の明るいニュースのように、少しだけ頬を緩めた。
「いいな。ワンルーム?」
「八畳あるから、持て余すかも」
一瞬だけ会話に火が灯りかけた時、唐辛子で真っ赤になったうどんが二つ運ばれてきて、橋野は割り箸を割った。田島は言った。
「フランケンは、ずっと強盗にビビってた。自分が強盗に殺されるってのは、皮肉なもんや」
時折、正義の鉄槌が下される。寄松が被害者であるとは、どうしても思えなかった。しかし、その鉄槌が振られる軌道上に、自分達もいる。橋野は、辛味の混ざった湯気に目を細めながら、言った。
「あいつは、最悪な奴やったな」
無言で食べ終えると、勘定を済ませて、外に出た。田島は、熱気が引かない内にバンディットに跨ると、ヘルメットを被った。橋野がグラストラッカーのエンジンをかけた時、田島はギアを一速に入れた。全ての動作が、自分よりもワンテンポだけ速い。田島はクラッチを離したついでに小さく手を上げると、走り去った。橋野はヘルメットを被ったが、すぐには動かなかった。四年前、文化祭の日に華崎が感じたことが、手に取るように分かった。自分はすでに、田島のバリアの外側にいる。今までに交わした会話と、バイクのエンジン音。高校時代から注ぎ足されてきたほとんどの記憶。順番に電気が消えていき、真っ暗になった。橋野はようやく、グラストラッカーのクラッチを握り込んだ。
別れの挨拶すらしなかった時は、たいていそれが最後になる。