Split
華崎はそう言って、その車のシルエットを見つめた。さっきから何度か見た気がする。右前が潰れていて、ヘッドライトは片方しか点いていない。その車体が急激に進路を変えてヘッドライトがハイビームに切り替わった時、華崎は思わず斉間の腕を掴んだ。
「お父さん」
植芝が運転するスカイラインは時速八十キロでトゥデイの右側面に衝突し、衝撃で斉間は即死した。雨でタイヤがスリップし、ほとんど勢いを削がれないまま、トゥデイは反対側のガードレールに激突した。スカイラインとの間に挟まれて押し潰され、車内を突き破った電柱が頭の骨を折り、華崎は死んだ。
植芝は、ひしゃげたドアを蹴り開けて、よろめきながら降りた。雨が降っていることに気づいて空を見上げると、口で雨水を受けながら、かろうじて骨折を免れた体をふらつかせて歩き、笑い出した。残っているのは、寄松と田島。
あと二人。
二〇二〇年 十月 現在
「佳代は、お父さんが好きやったからね」
藤川の言葉。橋野は、墓の前に花を供えた。三十四年に渡る人生の、たった二十分を共有しただけの人間。戸波と坂間の墓を訪れた時とは、その印象は全く違った。二人の墓に手を合わせている時は、『かつての共犯者は、静かにここで眠っている』ということへの安心感が、頭の片隅にあった。しかし、華崎に対しては、そんな感情の持ち合わせはない。思い出せるのは、文化祭を訪れた時の会話の断片。橋野が手を合わせて、再び目を開けた時、藤川は言った。
「命日には毎年来てるけど、変な時期に来たからびっくりしてそうやわ」
二〇〇六年二月十七日。初めて一人暮らしの話をした。自分の記憶と、華崎が巻き込まれた『事故』には、繋がりがない。しかし、田島も自分も、町にいてはいけない人間だった。フロントが大破したスカイラインの写真がニュースで流れた時、それがどういう意味を持つ車で、誰の運転なのかということまで、はっきりと分かった。田島から一切連絡が来なかったのは、同じことを、全く同じように理解している証拠だった。ニュース映像で流れた、斉間清吉と華崎佳代の写真。華崎は、高校時代の写真が使われていた。それを見てから、華崎の記憶は全て、卒業アルバム用の笑顔で塗り替えられた。誰も捕まらなかった、交通事故。スカイラインの運転席のドアは開けっ放しになっていて、戸波正人の轢き逃げ事件と同一犯とされたが、車のナンバープレートは正式に登録されたものではなく、製造番号のプレート自体が外されていたということが、小さく報道された。
「毎年、来てもいいかな?」
橋野が言うと、藤川はうなずいた。
「一人でも多くの人に、覚えててほしい」
霊園から出て、ビルの駐車場の前まで戻った時、橋野は藤川と連絡先を交換した。藤川は目を何度も瞬きさせると、空を見上げた。最後の瞬きで涙が流れ出したことに気づいた橋野は、言った。
「そのまま戻るん?」
「うん、泣かされたって言う」
「やめーや」
橋野が言うと、藤川は笑った。本当に、面影を感じなくなった。あの内気な少女が、今や社長なのだ。橋野がそう思いながら視線を外さずにいると、その全身を改めて点検した藤川は、少しだけ歯を見せて笑った。
「旧車マニアの友達、連れてくるから。次は、スーツで来てよ」
藤川の後ろ姿を見送った後、ゴルフの運転席に戻った。エンジンをかけて、いつも通りの音が車内に広がっても、頭に残る考えは振り払えなかった。十八年ぶりに再会した藤川の目から見て、自分に当時の面影はあっただろうか。若かったとは言え、結果的に、自分は逃げたのだ。変わってないねと言われるなら、それは当時の悪い部分を引きずっているということだし、面影を失くしているのなら、それは当時のことを忘れるぐらいに薄情だったということだ。戸波、坂間と、さっきまでは順調だった。しかし、華崎の墓の前だけでは、用意していた覚悟は、何の力も持っていなかった。藤川に聞かないと、墓の場所すら分からないぐらいに遠い存在なのに、あの卒業アルバムの写真は何年にも渡って、夢の中で笑いかけてきた。
橋野は、それから後に、ヤマギノで田島と交わした会話を思い出していた。引っ越し先のアパートが決まったという話をした。今思い返せば、まるで二人の幽霊が、どっちの足が薄く透けているか、お互いに探りを入れているようだった。
二〇〇六年 二月 十四年前
全国ニュースで流れた、足のつかないスカイラインの映像。ボンネットは山折りになっていて、エアバッグは両方開いている。その反対側にいたのは、斉間の車。助手席には、娘が乗っていた。両方が、即死。佐藤は、テレビに映し出された映像を見ながら、柏原に言った。
「植芝の目的は、こっちが身動きを取れんようにすることもあるね。一石二鳥を狙ってる」
「そうやな」
柏原は、黒縁眼鏡を外すと、スーツの胸ポケットに収めた。あの車は、二人が存在する証明。それで一連の事故を起こしたのは、こちらに少しでも捜査の手を向けさせるためだ。柏原は、佐藤の横顔に言った。
「何を考えてる?」
「次が寄松か田島か、分からんくなってきた。どの道、全部終わるまでは、植芝は出て行かんと思う。田島がわたしの言うことを聞いて逃げてたら、植芝はしばらく探し回る羽目になるから、そこを狙えるかも。でも、人のやることは当てにできん」
佐藤は、港の地図を眺めた。一枚は航空写真で、もう一枚は、飛び込みで入ったウィークリーマンションの屋上から撮った写真を元に、手書きで起こした。まず地図と相談した方が、人と話すより早く終わる。植芝がスカイラインで寄った場所は港の中に何か所かあり、その内の一つは、穂坂が管理する倉庫と一致していた。積荷を一時的に置いておくだけの屋根付きヤードで、出荷を待つ車の保管に使われるような、簡素なものだった。
「出て行くとしたら、大陸側まで抜けるやろ」
柏原が言うと、佐藤はうなずいた。
「漁船か……、カーフェリーかな。車の方が、色々持って行けるし」
柏原は、穂坂の倉庫の裏手を指した。勝手に入り込んだ釣り人が集まるエリアがある。
「ここから、覗ける。植芝が本気なんやったら、穂坂の倉庫の中に、何かしら準備の痕跡があるはずや」
佐藤は納得したようにうなずくと、テーブルの上に置いたコーヒーカップを手に取った。湯気に目を細めながらコーヒーを一口飲むと、地図を見つめた。
「わたしの勘やけど、植芝は強迫神経症やと思う。やから、敢えてこっちからかき乱そう。計画が一つでも狂ったら、隙が出るはず」
佐藤はそう言うと、洗面所から流れてくる毛染め液の匂いを押し込めるように、扉を完全に閉じた。真っ黒になった髪をハーフアップにすると、細いフレームの眼鏡をかけた。
「釣り人に見える?」
「見えん」
柏原はそう言うと、今までに佐藤が見た全ての出来事と、自分の身に起きたことを頭に並べて、考え始めた。中村屋、フランケンと呼ばれる寄松、そして田島。町に点在する、鍵となる場所。佐藤が出て行ってからも、柏原は地図上に毛細血管のように広がる道路から、目を離すことはなかった。