Split
「俺が初めて借りた部屋は、トイレから出たら、台所で飯を食ってる人間と目が合う部屋やった。でも、お前と同じ年やったかな」
「あの部屋は、気まずかったね。引っ越して、そこから通うん?」
直美が言った。橋野がうなずくと、それ以上聞きだすのを諦めたように、元治の顔を見た。直弘は視線を泳がせていたが、橋野に言った。
「もう、決めてるん?」
「そうやな。大体、この地域がいいなとかは」
それはつまり、ここじゃないどこかだ。橋野が言い終わった時、元治が後を引き継ぐように言った。
「こっちが条件を一方的に決める年でもないけど、一応。大学は続けろ。その前提で、後は自分で頑張るんなら、俺は応援する。銭勘定も、自分の思いつくままにやってみたらええ。大学に行って帰ってくるだけが学生やないからな。何をやっても、毒にはならん」
橋野は、直美の顔を見た。今のところ、裁判の様子はない。直弘が呆気に取られたように元治の顔を見ていて、橋野の念願が叶ったのを喜ぶように、ちらりと視線を寄越した。橋野は、食事が終わって部屋に上がっても、まだ考えていた。
引っ越すって、一体どこに?
斉間清吉は、昭和三十七年に山間部の小さな集落で生まれた。三歳の時に土間で転び、手の骨を骨折した。最寄りの病院は存在せず、親も含めて皆が『痛めた』だけだと考えていた。小指の骨は曲がったまま自然治癒し、慢性的に続く痛みの原因になった。隠れた骨折が出鼻をくじいたように、体はさほど大きくならず、高校を出る年になっても、中学生と混じって違和感がないぐらいだった。集落を出て、やや大きい町で暮らすようになってからは、顔だけに年輪が刻まれていき、年相応に見られるようになった。二十代前半で結婚して、子供も授かったが、四十四歳になる今、人生が巻き戻ったように、単身者用のアパートに暮らしている。
先月から始めた夜警のアルバイトは、決して楽な仕事だからと思って選んだわけではない。昼の配達業が早番の時は、夜ががら空きになるから、少しでも生活費を確保するには夜も何かしら仕事を入れようと考えたのがきっかけだったが、建物の秩序を守るのは意義のある仕事だと考えて、応募した。『うちにスーツ姿で面接に来たのは、あなたが初めてです』と言って、拠点長は笑っていた。二日も経たない内に制帽と制服が支給され、歩くのが極端に遅い先輩警備員から手ほどきを受けた。一か月ほどペアで動いているが、そんなペースで見て回っていたら、夜が明けてしまう。それなら、足りない分を早めに来てカバーすればいいと思って、一時間ほど早く来る習慣を始めた。普段と違うルートを巡回すれば、見落としがちな事も色々と見える。例えば、昨日から頭の中を占めている無礼な若者、ミッキー三郎。斉間はそのやりとりを忘れることができるか、自分で自分の頭に問いかけた。今は、ミッキー三郎の声で『無理やでおっさん』と返ってくるし、それが当面続くというのも分かり切っている。しかし、いずれは忘れなければならないのだ。仕事に響きそうだった。拠点長からは、あまり強硬な態度を取るなと言われている。ナンバープレートを報告すると、拠点長はミッキー三郎と同じことを言った。
『そんな時間に、何をしてたの?』
それが問題なのだ。警備が仕事なのだから、時間というのは関係ない。二十四時間監視することになっているのだから、目は多い方がいいはずだ。あの拠点長は若いが、どうにも熱意が足りないように感じる。今からでも言ってやりたいが、シフトの都合で今日は休みだった。斉間は、三年前に買った九〇年型のトゥデイの助手席で、この車を買ったのは正解だったと、今になって思っていた。当時、車を手放してバス生活にするか、その瀬戸際だったのだ。明らかに行動は制限されるし、今の警備の仕事にしても、家から辿り着くことはできなかっただろう。軽自動車で馬力はないし、ブリキで作られたように華奢だが、この車は生活の大半を助けている。それどころか、今やその役割は今までにないぐらいに、重要だ。そう思った時、段差に乗り上げて車体が飛び跳ね、斉間は窓に頭をぶつけた。
「ごめんなさい!」
華崎は、片手でハンドルを握ったまま、空いた方の手で口元を押さえて、右のミラーを見た。斉間は頭をさすりながら笑った。
「ええよ、練習や練習」
華崎佳代は、斉間家の娘として、昭和六一年に生まれた。小学校四年生の時に、斉間の事業の失敗が理由で一家は二つに分かれ、母親の姓を名乗るようになった。二年間、食卓のぽっかりと空いた方を向いては、もう父親は家にいないということを悟って、その度に言い聞かせてきたが、母と父を交互に見ながら話す癖は中々治らなかった。十二歳になった時、泰代の電話を盗み聞きしていた華崎は、父がさほど遠くない場所で一人暮らしをしていることを知り、誰にも一切伝えることなく、会いに行った。自分のしでかしたことで怒られるかと思ったが、華崎の姿に気づいた斉間は車止めによろよろと座り、自分が失った物の大きさを今更悟ったように、息をついた。そのまま魂まで抜けていくのではないかというぐらいに、静かだった。車止めに並んで腰かけて、何を話したのかはもう覚えていない。六年生になったからといって、特に大きな出来事があったわけでもなく、強いて言えば、背の伸びるペースが速まったぐらいだった。そこから、月に一回程度の交流が始まった。今でも、泰代はこの事を知らない。最近は、華崎が免許を取ったことで、その間隔は特に短くなっていた。斉間のシフトの合間を縫って、トゥデイで運転の練習をさせてもらうためで、昨日は夕方、今日は完全な夜間と、ささやかな練習会は二日間に渡っていた。
「お父さんの車やのに。今日、壊してまうかも」
「また買うわ」
斉間はそう言って笑うと、助手席から降りてホイールの具合を確認した。タイヤさえパンクしていなければ走れる。華崎は運転席から降りると、内側に寄せ過ぎたことで乗り上げた縁石を見つめた。
「タイヤ、大丈夫かな?」
「大丈夫や」
少し、雨がぱらついている。真っ暗な空を見上げて、斉間は笑った。
「夜間教習は、まだ早かったかな」
「それも卒業したのに。私、免許取ったんとか、実は夢やったんかも」
「怖いこと言うな」
斉間は笑いながら、運転席のドアを開けた。工場の並ぶ、人気のない道路を選んだ。練習しやすい曲がり角が多くあって、ローリング族が夜中に転回したタイヤの跡が残っている。助手席に乗り込んだ華崎は、ワイパーを見ながら言った。
「雨とか、私には無理な気がする」
「練習や練習」
斉間はそう言いながら、シフトレバーをドライブに入れた。華崎が接触した縁石の一つ先でUターンすると、T字型の交差点まで戻り、指示器を出した。青信号に変わり、アクセルを踏み込もうとした時、赤信号で止まれないぐらいの速度を出す車が、右側から走ってきていることに気づいた。斉間は、ブレーキを踏んで再び停車すると、言った。
「あいつ、信号見てないな。佳代、こういう奴はな。こっちが青でも、先に行かさなあかん」
「はいっ」