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直弘を見送り、元治が姿見でネクタイを調節していると、直美が首を横に振った。
「まだずれてる」
「鏡が歪んでるんちゃうんか?」
元治はそう言いながらも、直美にされるがままに身だしなみを整えて、クリアファイルに挟まれた書類が数枚しか入っていない鞄を手に持った。
「ほな、行ってくるわ。やっとこさ金曜日やな。智樹、頑張って」
直美が食器を片付けながら、橋野に言った。
「大丈夫?」
「うん、行ってくるわ」
橋野はリュックサックを背負い、車庫に下りると、グラストラッカーのエンジンをかけた。普段は電車で通学しているが、今日はそもそも、大学自体に行ける気がしない。エンジン音に気づいた直美が、車庫に顔を出した。
「バイクで行くん?」
「うん、ちょっと帰りに約束あるから。六時には帰る。あ、中村屋ちゃうで」
直美は、自分が言おうとしていることを先回りされたように、苦笑いを浮かべた。橋野はヘルメットを被ると、家が見えなくなったところでようやく、深呼吸をした。脱いだヘルメットを支えながら、携帯電話を再度手に取った。田島からの未読メールは、二件あった。『戸波が死んだ』と、その数分後に届いた『坂間が病院抜け出して、田んぼに落ちて死んだ』。無意識に頭に浮かんだのは、中村屋の向かいのブロック塀だった。自分と田島が立っていて、その隣が二人分、ぽっかりと空いている。橋野は息苦しくなって、ダウンジャケットのファスナーを胸の前まで下ろした。田島に電話をかけようと思ったが、その言葉のトーンを実際に耳にするのが怖くなり、メールで返信した。
『町、出たほうがいい』
数分も経たない内に、返信が届いた。
『そうやな』
誰かが、あの事件に関わった人間を狙っているのだ。橋野は、自分が本当に関わっていないのか、考えた。昨晩、スカイラインの後を追った時に、自分もそのリストに入った可能性がある。エンジンを再度かけてヘルメットを持ち上げた時、橋野は港の方向に目を向けた。そう大きい町でもないし、人が集まる場所は予測がつく。一日かければ、大きな道のほとんどは網羅できる。大学の同期に『今日休む。もし課題とか出たら、教えて』とメールを打つと、橋野はグラストラッカーを港の方向へ走らせた。
中村屋のシャッターに貼られた、『臨時休業』の張り紙。昨日、直感で思った。中村がパソコンで何かを作って、しかも印刷するなど、到底想像できない。田島はシャッターに鍵がかかっていないことに気づき、少しだけ持ち上げて、中を覗き込んだ。電気は消えていたが、椅子がひっくり返っているのが見えた。息を殺して店内に入った田島は、シャッターを下ろして、内側から鍵を閉めた。
「中村さん」
そう言いながら、田島は電気を点けた。ヘッドホンのジャックが千切れて地面に散らばり、煙草の吸殻が一本落ちている。確実に、ここで何かが起きた。荒っぽいことになっても構わないように、ブラスナックルを持ってきた。もしかしたら、中村を力でねじ伏せることになるかもしれない。フランケンのことを聞き出したかったが、どうやって切り出せばいいか、頭で考えても適切な言葉は浮かびそうになかった。今まで、中村に触れたり、力で上手に立とうと思ったことはなかった。椅子を起こした田島は、地面に落ちたヘッドホンを拾って埃を払うと、ラジカセの隣に置いた。金庫の上に、あのブルーのスポーツバッグが置いてあるのが見えて、田島はファスナーを開けた。紙切れ。ご丁寧に、札束の形をしている。ファスナーを閉じた時、傍らに金属バットが立てかけてあることに気づいた。戸波は、バットで殴られたと言っていた。甲高い音が鳴ったとも。バットを手に持った田島は、電灯の光で照らした。先端に髪の毛が数本くっついている。戸波は、このバットで殴られたのだ。
田島は、椅子に腰を下ろした。自分でも時間を忘れるぐらい、バイクの広告が隙間なく貼られた壁を見つめていた。フランケンは、ナンバープレートを変えて走っていた。おそらく、このバットを持って。中村が振りかぶっても、戸波の頭には届かなかっただろう。ここで待っていたら、LPガスのエンジン音に気づけるだろうか。昼飯時だが、必ずラーメン屋に寄るとは限らないし、先に中村がふらりと帰ってくる可能性もある。どちらにせよ、ここで待っていれば、何かが起きるはずだ。田島は椅子から立ち上がると、バットの先端を地面にくっつけた。息を吸い込んで、大きく吐いた時、後ろから膝を蹴られて、同時にバットを持った右手が背中へ向けて捩じりあげられた。バランスを崩した田島はバットを落とし、自分の体重で壁に叩きつけられた。体を捻ろうとしたが、相手の体が隙間なく押し付けられていることに気づいて、歯を食いしばった。
「離せ!」
「静かにして」
佐藤は、折れる寸前まで曲げた手首の関節に力を込めた。軟骨が裂けて、軋むような音を立てた。田島は振り返ろうとしていたが、それが手首の骨折に繋がることを理解し、抵抗しようとする力を緩めた。
「わたしの顔を見たら、殺す。絶対に振り返らんでよ」
田島はうなずいた。佐藤は手首にかけていた力を少しだけ緩めたが、体を離すことなく、続けた。
「名前を教えて」
「……、田島」
「田島さん。戸波さんから、連絡は来てない?」
佐藤が言うと、田島は首を横に振った。
「死んだよ。坂間も死んだ。なんであいつのことを知ってる?」
佐藤は小さくため息をついた。間に合わなかった。それどころか、戸波は誰にも町から出るよう伝えていなかった。
「町から出るように、わたしが言ったから。田島さん、あなたも同じようにして。今すぐ」
「……、それやったら、手え離せや」
佐藤は笑った。空気が揺れて、田島もそれに合わせるように、少しだけ笑った。
「それは、まだ無理。ここに来た理由を教えて」
それは、こちらから聞きたいことでもあった。田島は少しだけ俯くと、足元の金属バットを見ながら言った。
「そのバットで、連れが殴られたから。やり返しに来た」
「四人目?」
佐藤が言い、田島は抵抗する力を完全に抜いた。それでも、手首を捕らえている佐藤の手は動かなかった。
「なあ、五千万を回収しに来た人? あんなん、最初からなかったんやで」
そう信じたかったが、今はそれが嘘だと分かっている。田島は、自分を嘲るように言った。佐藤は、空いている方の手でヘルメット用のケースを手繰り寄せると、田島の頭に被せた。頭がすっぽりと隠れ、田島は咄嗟に振り払おうとしたが、それが手を開放されるための条件だと理解して、動きを止めた。手首から力が抜けていき、手を離した佐藤は、ファスナーを半分以上閉じると、言った。
「聞こえる?」
「聞こえてるよ」
田島の言葉が合図になったように、佐藤は椅子を持ってくると、その肩を持って座らせた。対面する形で立ったまま、言った。
「お金はあったよ。五千万円。あの現場に来た四人目が総取りしたって、わたしは思ってる」
「じゃあ、なんで戸波と坂間は殺されたんや。俺らは紙切れしか、手に入れられへんかったんやぞ。あんたはここで、何をしてんねん」