Split
四
二〇〇六年 二月 十四年前
本来は、牽引フックをかける場所ではないが、フレームの隙間を活用しないと、九十度横転した車は起こせそうにない。佐藤は、目に入り込んでくる血に気づいて、瞬きを繰り返した。額ではなく、そのさらに上の頭頂部に傷ができていた。血は耳元にも伝っていて、佐藤は右耳を中心に髪を後ろに払った。振り返ると、血でまだらになった手を挙げて、言った。
「お願いします」
失った顔色を全く取り戻せていない柏原は、ラジエターから白煙を上げるレクサスを後退させた。ロープが張りつめて、車体がタイヤを中心につっかえ棒をかけられたように持ち上がると、元通りに起き上がった。割れたガラスが派手に地面に散らばり、起こされたルートバンの車体は、子供が踏みつけた粘土細工のように歪んでいた。牽引フックを外した佐藤は、スライドドアを試したが、歪んでいて開かなかった。リアハッチを引っ張っていると、レクサスから降りてきた柏原が隣に立って、青白い顔のまま言った。
「おそらく、あいつも時間がないんやな」
植芝の、慌ただしい行動。死んだことを確認しなかったが、人質代わりにPDAを奪った。今回の仕事の資料が入っている。それだけならいいが、厄介なのはその前後の情報だった。どこで車を用意して、どうやって資材を調達しているか。そのリストを、外部に漏らすわけにはいかない。パスワードが設定されてはいるが、専門的な技術があれば、数日もあれば解けるだろう。時間がないのは、こちらも同じだ。この仕事にも、設定された期限がある。穂坂からは前金で全額が支払われているが、設定された十日間を過ぎたり、必要以上に深入りすれば、こちらが引導を渡される羽目になりかねない。その後に起き得る事を想像しながら、柏原は佐藤と呼吸を合わせると、リアハッチを引きちぎるように開けた。脇腹を浅く貫いた刺し傷に顔を歪めると、額から汗の雫を払いのけた。佐藤は血で濡れた自分の髪を指で掬い上げると、苦笑いを浮かべた。
「せっかく染めたのに」
乱雑に散った荷台の真ん中には、中村の死体を包んだ寝袋が転がっているだけで、ダッフルバッグは見当たらなかった。柏原は、救急キットの入ったライフルケースを引きずり出すと、肩に担いだ。佐藤は呟いた。
「お金を持って、逃げるってことかな。船?」
「飛行機はないやろうな」
佐藤は、歪んだルートバンの運転席に乗り込み、エンジンをかけた。真っ青な煙が出たが、どうにか動くルートバンを倉庫の中に入れて、クーラントの匂いをまき散らしているレクサスは、柏原が中へ戻した。正面扉を閉めると、佐藤は言った。
「PDAを取り返さんと、やばいよね」
柏原はうなずくと、穂坂の持ち込んだノートパソコンを使って、GPS追跡システムにログインした。スカイラインの位置が、地図上の赤い点で表示されている。乗り捨てるまでは、これで植芝の位置を追える。持ち物は限られていた。これから調達する時間も、ほとんどないだろう。だとしたら、最大限活用するはずだ。
「あいつは、ホワイトボードの写真を撮ってた」
柏原は傷口の様子を確認しながら、言った。意識を取り戻した佐藤が手当てしなければ、失血死していた。佐藤は、頭の傷に止血用のガーゼを乗せてテープで留めると、前髪を完全に持ち上げて隠し、ピンを差し込んだ。救急キットの蓋を閉じると、一息つくように、レクサスの車体に浅くもたれた。
「自分に繋がる人間を、消すつもりやと思う」
「俺らは?」
「わたしらが警察に駆け込まんのは、知ってるんちゃうかな」
佐藤はそう言いながら、名前に視線を走らせた。町を出るように言って、三時間。手遅れかもしれない。
「戸波は、真っ先に殺すと思う。次は、病院で身動きが取れん坂間。田島はどうかな、実家の住所しかないから、すぐには無理かも。下見は絶対すると思う」
自分と同じ考えの持ち主なら、その様式に従うだろう。植芝の行動の早さなら、すでに何人かは片付けたかも。佐藤の意見に、柏原も納得したようにうなずいた。
「その次は、斉間か寄松のどっちかやな」
「罠を張りようがないね。もしかしたら、斉間は直接関係がないし、寄松の方から殺すかもしれん。戸波は、バットで殴られたって言うてたでしょ。中村屋に金属バットが置いてあったし、寄松の方が深く関わってる気がする。で、田島が最後かな」
戸波の話の中で、唯一ぼんやりとしていた寄松。タクシー会社の名前も、車種も分かっている。佐藤は、ライフルケースを開いた。銃身の先端にサプレッサーが取り付けられたクリンコフを持ち上げると、ストックを展開させた。二本の弾倉をノートパソコンの隣に置くと、ポーチに入ったグロックと十五発弾倉を二本、隣に並べた。最後にシースケースに入ったナイフを置くと、佐藤は言った。
「使わんつもりやったのに」
「備えあれば、やな」
柏原はグロックに弾倉を差し込むと、薬室に九ミリ弾を送り込んで、ベルトに挟んだ。スカイラインは、港にいる。穂坂の倉庫の内、一軒がその区画にあったはずだ。植芝は、穂坂が所有する建物なら、出入りできるのだろう。だとしたら、脱出するまでの仮住まいとして、足のスカイラインと共に身を潜める可能性が高い。
「そのノートパソコン、いつまでもつかな?」
佐藤が言うと、柏原は首を傾げた。
「数時間ってとこかな」
佐藤は、ルートバンの荷室から漂白剤のボトルを回収すると、自分と柏原が触れた場所に振りかけた。携帯電話でホワイトボードの写真を撮り、書かれている文字を全て消すと、ルートバンの中へ片付けた。柏原は、穂坂の死体を運ぶことを考えたが、血の海が大きすぎて、手のつけようがないことに気づいた。佐藤も諦めたように一度腕組みをすると、人生で最も迷惑な物体に出くわしたように、しかめ面になった。廃倉庫だから、穂坂以外が訪れることはない。そう結論付けた二人は、倉庫の外に出た。路上駐車されている車の間を縫うように歩いて、鍵が開きっぱなしになった九二年型のアコードセダンを見つけた柏原は、佐藤を呼んだ。キーシリンダーを分解してエンジンをかけ、倉庫に戻ると、二人はライフルケースに装備を仕舞い込んで、トランクへ入れた。佐藤が運転席に座り、ハンドルを握った。柏原は、倉庫から出て南京錠を再び閉め、アコードの助手席に乗り込むのと同時に、ノートパソコンで中村屋の近くで張り込めそうな場所に当たりをつけた。お互いが勘で動いている。それは間違いない。だからこそ、植芝が適切な訓練を受けた人間であればあるほど、その行動を読むのは簡単になる。そこまで考えた時、柏原は口を開いた。
「佐藤」
柏原に名前を呼ばれて、佐藤は顔を向けた。柏原は自分の刺し傷を庇いながら、言った。
「あいつは同業かもしれんが、狂ってるぞ。俺らの考えは、通用せんかもしれん」
その言葉にうなずいた佐藤が座席を調節して、深くアクセルを踏み込んだ時、植芝が姿を消してから、ちょうど一時間が経った。
朝、橋野の携帯電話に立て続けに届いたメール。メールマガジンのように事務的で、会話を打ち切る時に送る最後の返事のように、短かった。直弘がリュックサックを担いで、言った。
「行ってきます」