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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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 同僚が手を振るのに合わせて、戸波は大きく手を振り返した。家までの道を歩きながら、コンビニに寄ることを一瞬考えたが、打ち消した。先に片付けるべき問題があった。確実に殺されると思っていたが、実際には違った。想像する最も荒っぽいやり方で拉致されたが、その後は、柔らかい女の声で尋問を受けただけ。正直に話したことが伝わったのか、あっさりと解放された。条件は、田島と坂間に『町から出ろ』と伝えること。それができなければ、また捕まえに来るのだろうか。目隠しをされたまま地面を引きずられるのは、もう経験したくない。女の声に合わせて、ペンチで爪を掴まれるのも。次は逃げる自信がある。テープを剥がした時に、走り去る車のシルエットが一瞬見えた。シルバーのスカイラインセダン。戸波はその情報を得たことで、自分の安全をとりあえず確保した気になったが、今の自分が抱える、最も難しい問題について、考え始めた。自分が『町を出ろ』と言えば、全て話したことも自動的に分かってしまうのだ。田島は理解があるかもしれないが、坂間を怒らせずに伝える方法は、思いつかなかった。戸波は横断歩道でひとしきり肩をすくめた後、青信号になったことを確認してから歩き始めた。信号無視をした車が前を横切り、戸波は飛び退いた。
「危ないやろ! アホ!」
 思わず叫び、早足で横断していると、視界の隅でその車がUターンするのが映った。戸波が顔を向けた時、タイヤが鳴き、急発進した車のヘッドライトがハイビームに切り替わった。それが、あのスカイラインであることに気づいた戸波は、思わず言った。
「待って、今言うから」
 植芝の運転するスカイラインは、時速六十キロで戸波の体を跳ねた。空中に飛ばされた戸波は、頭から地面に叩きつけられ、首の骨を折って即死した。衝突音に気づいたガソリンスタンドの同僚が駆け付けた時には、右のヘッドライトが粉々に砕けたスカイラインの姿は、どこにも見当たらなくなっていた。
       
 手の傷を負った記憶は、全くなかった。坂間は、足首よりも回復に時間がかかりそうな左手を眺めた。
「いつやねん、ほんま……」
 右足首を折ったのは間違いない。猛烈な勢いで後退してきて、足を抜く暇はなかった。それはこっちの覚悟が足りなかったから。あの運転手は、ぼうっとした見た目とは裏腹に、本気だったのだ。人間というのは、見た目で分からない。足首を執拗に狙われたことも覚えている。表情は一切動かなかったが、虫を踏み潰し損ねて、次こそはと意気込んでいるようだった。その虫が自分だったのだ。しかし、手をやられた記憶はなかった。
 とどめは、病院にかかってきた田島からの電話。中身が紙だと知らされた時は、笑い出しそうになった。『楽しみやねん』という言葉は、よりによって、自分が発したのだ。上手くいく保証はなかったし、実際、直前になって橋野が抜けるトラブルもあった。坂間は窮屈な車椅子の上で体を捩った。まだ緊急手術が終わったばかりで、車椅子からは起き上がれない。それでも、深夜の静まり返った病院を抜け出すことはできた。坂間は手すりの横に吊るした袋から、煙草の箱を取り出した。全て右手でやらなければならない。ようやく一本をくわえて、体を屈めながら火を点けると、煙を吸い込みながら空を見上げた。病院の裏口は田んぼに面していて、長閑だった。骨折り損というフレーズから始まることわざは、まさに自分のためにある。坂間は、目が慣れるにつれて浮き彫りになってくる深夜一時の星空を眺めながら、思った。事前にあんな話をすべきではなかったのかもしれない。小学校からの連れだとか、結局のところ、そんなことは関係がなかった。絶対に来ることはないと思っていた戸波が、土壇場で駆け付けたのだ。田島がやられたのは見ていたから、自分が意識を失った後で状況を打開できるとしたら、それは戸波以外にいなかった。
「助かったわ」
 短く呟くと、坂間は煙を吐いた。人を見る目を養うべきだ。足首がくっついて、手が蘇ったらの話だが、医者は両方元に戻ると太鼓判を押した。まずは治療しないと、何も始まらない。そう思った時、車椅子のロックが外れる音が足元から鳴って、坂間は振り返った。植芝は車椅子を掴み、田んぼに突き落とした。浅く張られた水で坂間が窒息するまで、四分を要した。うがいのような音がようやく止まったのを見届けた植芝は、スカイラインに乗り込んだ。PDAで撮った写真を見返しながら、ため息をついた。
 まだ、自分に繋がる人間が残っている。
   
   
二〇二〇年 十月 現在
   
 橋野は、少し汚れの目立つ墓石の前に、缶ビールを置くと、手を合わせた。戸波家の墓は小さい。轢き逃げ事件で、それが死亡事故だった場合、検挙率は九五パーセント。戸波は、残りの五パーセントに分類される。空中に跳ね上げられるほどの衝撃。ブレーキ痕はなし。死んだことを知ったのは、次の日の朝だった。田島からの短いメールは、『戸波が死んだ』。立て続けに、続きが届いた。『坂間が病院抜け出して、田んぼに落ちて死んだ』。まるで、近所に新しい店ができたとか、潰れたとか。それぐらいの軽さだった。町を出ることを意識したのは、その時だった。
 立ち上がると、大きな霊園の反対側まで歩き、橋野は坂間家の墓にペットボトルの天然水を二本置いた。中身は焼酎ではなくて、本物の水だ。酒好きの一家らしく、一升瓶やワンカップで賑わっている。同じ墓に入る坂間は、酒を一滴も飲まなかった。だから、これはお前に。手を合わせると、橋野は立ち上がった。
 ハゲとヘルメット。髪にちなんでつけられたあだ名。橋野は、本人にしか自覚できないぐらいに、少しだけ隙間の空き始めた前髪を後ろへ撫でつけると、石段を下り始めた。二人とも、髪のことをどうこう言い出す年まで、生きられなかった。駐車場へ停めた車に戻り、次の目的地をスマートフォンに設定した。純正のカーナビはとっくに壊れていて、ただの黒い画面だ。橋野トレードオートは、国産の旧車を扱う。だとしたら、店主もそういう車に乗っているのが、普通だと思われるかもしれない。愛車が、ほとんど改造されていない白の九七年型ゴルフGTIだと知って、失望したような表情を浮かべる顧客もいた。イッシ―ですら、『社長の車、外車なんすか』と驚いていた。外車、その通りだ。しかし、同型のゴルフをオークションで見かけた時に記憶が蘇って、結局根負けするように買った。それ以来、三年に渡って修理を繰り返しながら乗っている。あのゴルフとは色が違うし、細かな仕様も違う。しかし運転していると、目の前で急発進して右折していったスカイラインの後ろ姿が、今でも浮かぶ。橋野は、キーを捻った。エンジンがかからなかったのは、セルモーターが故障した一回だけ。
作品名:Split 作家名:オオサカタロウ