Split
佐藤はスーツのポケットに右手を入れた。中村は、煙を吐き切らない内に、再度煙草をくわえて、深々と煙を吸い込んだ。先端が赤く光ったとき、佐藤は左手をダッフルバッグの取っ手に回した。中村は煙草を口から離すと、目線が逸れた一瞬を狙って、佐藤の顔に向けて真っ赤に焼ける煙草を弾き飛ばした。ポケットから抜かれた右手が火の粉を顔の寸前で止め、その後ろで、まっすぐに中村を見つめる佐藤の目が大きく見開かれた。
「なんで?」
佐藤はそう言うのと同時に、アイスピックを中村の左目に突き刺した。刃が全て吸い込まれて、目から柄だけが突き立った状態になった中村は、そのまま仰向けに倒れると、体の半分をしばらく痙攣させていたが、中途半端な体勢のまま動かなくなった。佐藤はシャッターを開放すると、スカイラインのトランクを開けて、寝袋を取り出した。中村の小さな体を包み込むと、ファスナーを閉めて、トランクへ移した。ダッフルバッグを後部座席に放り投げ、椅子が転がる作業場を振り返った。血の跡はない。シャッターを閉めて『臨時休業』の張り紙をテープで留めると、中村屋はそれを合図に眠りに落ちたように、静まり返った。佐藤は運転席に座ると、バックミラーを一度見た。ちょうど、角を曲がってきた車が端に寄せて、路上駐車をしている車が二台に増えた。シフトレバーを一速に入れると、佐藤はスカイラインを発進させた。停まったばかりの車も、ヘッドライトを消したまま動き出した。佐藤は頭を動かすことなく、目だけでバックミラーを何度か確認した。さっき、柏原が戸波を降ろした後、車を交換した。この後、もう一度交換する時に、ダッフルバッグはルートバンに移すことになるだろう。誰が何を持っていて、どの車に乗っているのかは、これで分からなくなる。バックミラーを見た佐藤は、スモールランプだけ点けて目立たないように走っているゴルフのシルエットを確認すると、少しだけスピードを落として車間を詰めさせ、ナンバープレートを記憶したが、二人の顔までは読み取る時間がなく、諦めた。片側一車線の道路に出てしばらく走った時、対向車線を大型トラックが進んでくるのが見えて、佐藤は二速に落として急加速させると、トラックと正面衝突する寸前で交差点を右折した。急ブレーキとエアホーンの音が鳴り響いたが、バックミラーからは、ゴルフの姿は消えた。探したければ、好きなだけ探せばいい。
仮にこの車を見つけたとしても、必要以上に近寄れば、それが最後の景色になる。
急停車したことで荷崩れ寸前になったトラックが、再びのろのろと動き出すのを見ながら、橋野は何事もなかったように直進し始めた。田島は心臓を手で押さえながら、スカイラインが曲がっていった先に目を凝らせた。
「逃げられたな」
「そもそも、追いかけるべきちゃうかった」
橋野は呟いた。ゴルフのステアリングを握る手は、離したが最後、震えが止まらなくなりそうだった。中村屋に着いた時、スカイラインのテールランプがちょうど光ったところだった。シャッターの真ん前に停められていて、用事を終えて静かに走り去っていくのを追うように、橋野はシャッターの前を通った。『臨時休業』の張り紙が手書きでないことに気づいた田島が『ナカムーはパソコン使えんぞ』と言い、スカイラインの後を追うことを決めた。信号待ちに救われたようにニュートラルに入れると、橋野は言った。
「中村屋に戻る?」
「せやな」
田島は短く言うと、携帯電話を取り出し、メモ帳にスカイラインのナンバープレートを控えた。橋野がその様子を見ていることに気づいて、言い訳するように言った。
「さっき、フランケンの話してたやん。あいつも、いっちょかみしてたんかな?」
「ナンバーの話? いや、見間違いかも知らんで」
橋野は青信号で発進すると、ギアチェンジを繰り返しながら、田島の答えを待った。結論が出ないように携帯電話を取り出すと、メールを打ち始めた。自分のポケットの中で携帯電話が震え、橋野は田島がスカイラインのナンバープレートを送ってきたことに気づいた。携帯電話を取り出すと、握りしめたままギアを三速に入れた。
「あのスカイライン、探すつもりか? 逃げ方からして、半端なかったぞ」
「ナンバープレート、覚えといてくれ。無理して探す必要はないけど、もし見かけたら、教えて欲しい」
田島はそう言って、携帯電話をポケットにしまい込んだ。橋野は、自分の本来の役割について考えていた。自分が参加できていたとしても、結果は変わらなかったはずだ。スポーツバッグの中身は紙切れで、坂間は足を折っていただろう。遠回りして中村屋の前にゴルフを停めた橋野は、ハンドルとシフトノブを服の袖で拭いた。
「指紋、お前も消しといたほうがいいよ」
田島は慌てて服の裾を丸めたが、後部座席にタオルがあることに気づき、それで車内をくまなく拭き上げた。ドアノブも拭いて、足でドアを閉めると、橋野は中村屋の郵便受けに鍵を返した。何も解決していないが、手元から離れた。田島のノアに乗せてもらい、自宅が近くなった時、橋野は言った。
「お前って、家の話せんよな」
田島は肩をすくめた。
「何もないからな。ただの家や。仲悪いわけでもないし。お互いに興味がないだけで」
「これが買えるんやから、立派な家なんちゃうの?」
橋野は、ノアに取り付けられた最新型のナビを見て、呟いた。田島は小さくうなずいた。
「まあ……、そうやな。金は持ってるやろね。坂間のアル中一家と、戸波の虐待ファミリーの話、知ってるか?」
「坂間の話は、聞いたことある」
橋野はそれ以上聞く気を失っていたが、田島も、二人の家庭について深堀りする気はないようだった。
「俺は、ほんまに普通の家庭に育った。悪さをする理由は特になかったんやけどな。気づいたらこうなってた。でも、坂間とか戸波みたいな、ああいう奴らと波長が合うねん」
田島が二人を名前で呼ぶのは、久々だった。橋野が続きを待っていると、田島は場違いなミニバンを走らせながら、笑った。
「なんやろな、高校に入ってハッシーと友達になったとき、似てるなって、直感で思った。あいつらと違うって言ったら、二人に失礼になるけど。俺みたいな矛盾した奴は、俺以外におらんって、ずっと思ってた。でも、お前は似てる感じがした」
家庭環境のせいにできるのは、逆説的に幸せなのだろうか。壊れているからこそ、直す価値なり、さらに壊す理由を初めて見い出せるのかもしれない。橋野は言った。
「似てるかもな。でも、俺にはお前みたいなリーダーシップはないけど。確かに家庭環境は似てる」
「お前も、家の話はせんかったやろ」
「確かにな。話すほど、おもろいイベントもなかったしな」
橋野が言うと、田島は深くうなずいた。坂間の家にある天然水のペットボトルは、全て焼酎だという話。そして、戸波の、隙あらば子供をストレス解消の標的にする狂った一家の話。物語として消費する以上、こちらも何かを差し出したかったが、家に帰っても、退屈な繰り返しが待っているだけだった。
「文化祭、覚えてるか?」
橋野が突然話題を変えたように思えて、田島はその横顔を一瞬だけ見た。
「覚えてるよ」
「あの、華崎って子も?」