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声の調子が若干戻っていて、田島は小さく息をついた。少し遅れて、戸波の言葉が頭の中を巡った。
「何が?」
「盗るやつ」
「そうや。助手席に置いたやろ?」
田島は、運転席に座ったまま身を捩った。見た目では分からなくても、どこかの骨は折れていそうだ。田島が長い深呼吸を終えた時、戸波が言った。
「中身、ただの紙やぞ」
警察の現場検証が始まったのは、午後七時だった。六時に道を通った軽急便の運転手が、粉々になったジョグを見つけて、轢き逃げとして通報したのがきっかけだった。ジョグの持ち主である中村に電話が入り、そこから坂間が運び込まれた病院へと、一時間も経たない内に連携された。午後九時、田島はバンディットに跨り、港湾道路で戸波が現れるのを待っていた。セルシオから降りてくると、戸波は言った。
「とりあえず、坂間は病院に連れて行った。轢き逃げにあったってことで、警察と喋ってると思う」
「そうか」
田島は短く呟いて、車体が半分浮いたレクサスのことを思い出した。
「あいつらは?」
「警察が着いた時には、おらんかったらしい。坂間の原チャだけが、転がっとったって」
どうにかして、あの現場から立ち去ったのだ。運転手は、見た目からは全く想像のつかない力の持ち主だった。田島は、セルシオの助手席を覗き込んだ。忌まわしいスポーツバッグ。
「中身、紙なんか」
「そうやで、紙やったわ」
戸波は、バッグのファスナーを開いた。紙幣の形に切られてはいるが、中身はコピー用紙の束だった。田島はセルシオのボンネットに腰掛けると、笑った。
「これは、だっさいな」
「マジで」
戸波も、ボンネットに腰掛けて、隣に並んだ。後頭部から鈍痛が消えなかったが、それでも殺すつもりで殴られたのではないと、直感で分かった。後頭部を押さえながら、戸波は言った。
「パコーンって、音鳴ったんは覚えてる。バットかな」
「金属バットかもしれんな。あの運転手、そんなん持ってたっけ?」
田島が言うと、戸波は首を傾げたが、次の心配事に上書きされたように、後頭部から手を離した。
「あー、ナカムーになんて言う?」
「あったまんま、話すしかないわ。見栄っぱりのおっさんのホラを当てにして。アホちゃうか」
田島はそう言って、賭けで有り金をすべて溶かした直後のような、晴れ晴れした顔で夜空を見上げた。その言葉は自分にも向いていた。
坂間の言っていた『そっから後』。それが始まったのだ。
廃倉庫の中はがらんとしていて、中に入るのは初めてだった。すでに、数時間が経っているが、黴臭い倉庫内の空気は、重苦しさが加わって、普通に息を吸い込めないぐらいだった。頭に包帯を巻いた植芝は、ノートパソコンの画面を眺める穂坂に言った。
「自分の不注意で、申し訳ないです」
「いや、俺が車から出んかったら、良かったんや。いつも言われてたのに、すまんな」
穂坂は、ほとんど無傷だった。レクサスは右後部のサイドウィンドウが割れたのと、リアバンパーが擦り傷だらけになって、マフラーの固定が一か所外れた以外は、特に損傷を受けていない。逃れることには成功した。植芝がジャッキで車体を持ち上げて原付を車体の下から抜いた時、襲撃を企てた人間はいなくなっていた。意識が混濁していたのは数分間だったが、その間に、全てが終わっていた。穂坂は、後部座席に戻ってすぐに、ノートパソコンと睨めっこを始めた。それは今でも続いていて、時折文章を打っているのが、音で分かった。植芝はレクサスの底面を改めて覗き込んだ。マフラーのステーは、ねじ曲がったように引きちぎられている。テープでどうにかできるレベルではない。
「この車は、轢き逃げで追われると思います」
植芝が言うと、穂坂はうなずいた。この数時間で、初めてノートパソコンを閉じると、言った。
「こいつは、処分しよう。お前、愛着ないな?」
仕事用の車に変な言葉だと思い、植芝はネクタイの位置を調節しながら、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫です」
「よっしゃ。心配いらんぞ。もうすぐ来よるわ」
穂坂の言葉の主語が分からず、植芝はそれが補われるのを待ったが、穂坂は入口を見つめるだけで、何も言わなかった。植芝は根負けしたように、言った。
「何が来るんですか?」
穂坂が答えるよりも前に、二台分のエンジン音が聞こえてきて、倉庫の前で停まった。一台は九八年型のスカイラインセダンで、車回しで向きを変えたらしく、毒々しい丸目四灯のテールランプを赤く光らせながら後ろ向きに入ってくると、少しだけ端に寄って停まった。続いて入ってきたのは九二年型のダイナルートバンで、前向きに入ってくると、スカイラインの隣に並んだ。植芝が思わず穂坂の方を向くと、穂坂は言った。
「彼らは、人探しのプロや」
ルートバンから降りてきたのは、植芝より少しだけ若く見える、背の高い男だった。身長は百八十センチ、体重は八十キロ程度。大抵のことは、力で押しのけることができるタイプに見える。植芝は、その表情から人格のかけらでも盗み見ることができるかと思ったが、機械のように全く隙がなく、黒縁眼鏡は眼力を少しでも弱めて、普通の人間に溶け込むことが目的のように見えた。男は小さく一礼すると、運転で少し位置のずれたネクタイを調節した。スカイラインの運転席から降りてきたのは女で、立ち上がると、細身で背は高い方だった。百六十センチ半ば、ボブカットにした栗色の髪に、輪郭のはっきりとした目。男と同じくスーツ姿で、左手首に違和感があるように一度回した後、小さく頭を下げた。穂坂が言った。
「どうもどうも、わざわざすまんね。私が依頼主の穂坂。こちらは運転手の植芝」
男が歩み寄ると、手を差し出して言った。
「どうも、柏原といいます」
握手を返すと、続けて、隣から女が同じように手を出した。
「佐藤です」
植芝と握手を済ませると、佐藤はルートバンのスライドドアを開けて、折り畳み式のホワイトボードを取り出した。その様子を見ながら、植芝は思った。この二人は、講演で各地を渡り歩いている人間のようだ。ホワイトボードは、その商売道具に見える。柏原がパイプ椅子を二つ運んできて、片方に座った。
「時系列を整理しますので、順を追って聞かせてください。どんなことでも結構です」
ホワイトボードを近くに寄せた佐藤が答えを待っていることに気づき、植芝は言った。
「トヨタダイナ。四トンの平。そいつが道を塞いで、後ろには原付がいました。咄嗟に下げたんですが、原付に乗り上げて、動けんようになって。あと、トラックの後ろに黒のセルシオが来てました。あれで逃げたんやと思います」
佐藤は塾講師のように書き留めていくと、ダイナと書いた下に、両括弧を足した。
「年式は分かりますか?」
「いえ。新しそうに見えました。吊り目でしたね」
植芝が記憶の通りに言うと、柏原が佐藤に言った。
「吊り目は現行型や」
佐藤はその通りに括弧の中を埋めて、レクサスGSを指差した。
「底を覗いてもいいですか?」