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「自分、その仕事向いてないで!」
レクサスGSの運転席は静かだ。穂坂もほとんど話すことがない。ラジオやテレビといった『音の鳴るもの』とは、穂坂は無縁だった。だからこそ、出て来たばかりの倉庫の方向から、怒号のような声が聞こえてきた気がして、植芝はバックミラーに一瞬だけ視線を向けた。原付が一台走っているだけだ。市街地まで、この道は二キロほど続く。反対側からダイナが入ってきたのが見えたが、他のトラックに混ざるように端に寄せて、路上駐車をしている車の一部になった。植芝は、シフトレバーに触れた。穂坂の視線が、自分の左手に移ったのが、気配で分かった。
「どないした?」
穂坂が言った。植芝は咳ばらいをすると、バックミラー越しに穂坂の顔を見た。
「ベルトをしてもらえますか」
穂坂は苦笑いを浮かべながら、首を横に振った。植芝は十年間で、穂坂がシートベルトを締める姿を見たことがなかった。穂坂は、一度はシートベルトの端を掴んだが、思い直したように離して言った。
「いやあ、ベルトは窮屈や。自分、そんな神経質やったら、生きにくいのお」
その言葉に平手打ちを受けたように、植芝は瞬きをした。アクセルを踏み込んで一気に抜ける。頭はそう意気込んでいたが、体に伝わるのが一瞬遅れた。目の前で、一旦路上駐車したダイナが右にハンドルを切って発進し、道を塞いだ。植芝は、穂坂が前に飛ばないギリギリの強度でブレーキを踏み、レクサスの車体が停まるのと同時にバックギアへ入れて、アクセルを全開にした。リアウィンドウ越しに原付が見えたが、横倒しになっていた。体を抜こうとしている運転手が見えたが、植芝はスピードを落とすことなく、レクサスの後部を突っ込ませた。
体が抜け、何とか間に合ったと思った時、坂間は体がコマのように飛ばされるのを感じた。地面に転がった時、自分の右足首が折れたことが分かった。目の前に、車体が半分浮いたレクサスがいた。計画通り、ジョグに乗り上げて動けなくなっている。立ち上がろうとしたが、足が利かなかった。大きな排気音が遠くから聞こえてきて、それが戸波のセルシオだと気づいた坂間は、電柱を掴みながら立ち上がり、片足立ちでレクサスに歩み寄った。運転席から、あの面長の男が降りてきたのが見えて、そのぼうっとした表情を見留めるよりも早く、ジェットヘルの隙間を全く外すことなく、精密機械のような右手が飛んできた。
植芝は、坂間を一発で地面に倒すと、折れ曲がった足首に踵を叩きつけた。坂間が悲鳴を上げて足を庇いながら転がり、植芝はその後を追おうとしたが、後ろから田島の体当たりを受けて、地面に突き飛ばされた。田島がグラスブレーカーで後部座席の窓を割った時、その手が強く引かれた。植芝の膝蹴りが脇腹に食い込み、呼吸ができなくなった田島は横向きに倒れた。穂坂が反対側のドアを開いて、地面に足を下ろしたのが見えた。再び植芝の蹴りが飛んできて、今度は背中に命中した。田島はどうにかして立ち上がろうとしたが、蹴りを受けた箇所を中心に、体の自由が利かなくなっていた。植芝はぼんやりした表情のまま二人を眺めていたが、思い出したように、坂間の折れた足首を蹴飛ばした。穂坂が車の外に出ていることに気づいて、言った。
「戻ってください!」
その返事を聞くよりも早く、戸波が駆け寄って、首筋にスタンガンを刺すように当てた。植芝が前のめりに倒れ、戸波は田島に言った。
「代わってくれ!」
田島はよろけながらスタンガンを受け取り、戸波が穂坂の方へ歩いていくのを見届けた。その時、植芝が昼寝から起きたように立ち上がり、振り返った。その右手が田島の首に食い込み、スタンガンを当てようとする前に、植芝は田島に頭突きを食らわせて弾き飛ばすと、スタンガンを拾い、そのまま田島の首に刺して気絶させた。続けざまに坂間を刺した時、風を切る音が鳴った。後ろから駐車禁止の看板がスイングされてきたのを見て、植芝は頭を下げたが、それは途中で軌道を変えて、後頭部に当たった。激痛と光が走り、植芝は地面に倒れた。仲間と思しき男が、その手にスポーツバッグを持っている。穂坂は鼻血を出していたが、地面に伏せていた。見るなと言われているのは明らかだった。頭がぐらぐらと揺れて、後頭部に触れると、水を被ったように濡れているのが分かった。
戸波はスポーツバッグを担いだまま、意識を失っている田島と坂間の手を引いて、セルシオまで引きずり始めた。考えている余裕はなく、二人は尋常でない重さだった。駐車禁止の看板を食らわせた植芝は、地面から立ち上がれないでいる。戸波は、セルシオの後部座席を開けて、田島を放り込んだ。反対側に回って坂間を乗せると、ドアを閉めた。一回で閉まらず、力任せにドアを蹴った時、フレームとドアの間に坂間の手が挟まっていて、自分がドアを蹴ったことで、指の骨が全て折れたことに気づいた。一旦諦め、助手席のドアを開けてスポーツバッグを放り込もうとした時、真後ろで軽い音が鳴った。それが野球の時によく聞いた音だと思った戸波は、自分がバットで殴られたという事実に気づくことなく、その場に倒れ込んで意識を失うまで、野球のことを考えていた。
最初に意識を取り戻したのは、田島だった。いつの間にかセルシオの後部座席にいて、隣にはヘルメットを被ったまま気絶している坂間。ドアを開けて降りると、体はどうにか動いた。戸波が倒れていて、その脇にスポーツバッグがあった。それを持ち上げて助手席に放り込むと、戸波の体を揺すった。
「おい、メット! 起きろ!」
戸波はその声で少しだけ体を動かした。田島は手を回して担ぐと、運転席に座らせた。
「しっかりしろ!」
まだ目が回っている様子の戸波は、覆面を脱ぐと、開けっ放しになったドアから顔を出して、血が混じった唾を吐いた。
「くそっ、頭が痛い」
「殴られたんや。トラックどけるから、先に行け」
戸波はその声で我に返ったように、助手席のスポーツバッグを見ると、突然大きく目を見開いた。運転席のドアを閉めると、シフトレバーをドライブに入れて、急発進させた。田島はダイナに戻り、入ってきた道の入口まで後退させた。ジョグに乗り上げたレクサスと、まだ顔を伏せている穂坂、そして、頭から血を流して片膝をついている植芝の姿が見えたが、田島にとっては、どちらかが自分の方を見ていないかということが、最大の心配事だった。永遠に思えた入口に辿り着いて転回させると、港湾道路までダイナを走らせた。三時間前に坂間と話したのと同じ場所に停めてようやく、田島はバックミラーを見た。顔はほとんど殴られなかったが、避け切れなかった頭突きが顎に当たったことで、口の開き方に違和感がある。蹴りを受けた感触は、体のあちこちに残っていた。戸波は、どこにもぶつけることなく、セルシオを元の場所まで運転できているのだろうか。坂間は酷い有様だった。右足首は完全に折れていたし、ドアに挟まれた手は真っ赤に腫れていた。電話を掛けるべきではないのは、分かっている。しかし、今はどうしても、状況を把握したかった。田島は携帯電話を取り出すと、戸波にかけた。何度目かの着信で、ようやく出た戸波は言った。
「おい、ブルーのスポーツバッグやんな?」