Split
短い会話。全く力を貸せない。その事実に思い当たった橋野は、その場に座り込んだ。電話を切ってからもしばらく動けないでいたが、突然立ち上がるだけの力が戻って来て、午後三時を回る今も、どうにかしてゴルフのエンジンを復活させる方法を探っている。しかし今の時点で、現場に間に合わせるだけの時間は残されていなさそうだった。四時ぎりぎりに着いたとして、ナンバープレートを取り換える時間が足りない。
車載時計が、午後三時十五分を指した。田島は、ようやく折返しの電話をかけてきた戸波に、言った。
「セルシオで行け。ゴルフのバッテリーが上がった」
「は?」
戸波は、反応とは裏腹にすぐに状況を飲み込んだようで、玄関のドアを開けたのが音で分かった。
「時間がないで。四時ギリになるってか、あんな目立つ車で駐車場に停まっとくん、無理やろ」
階段を駆け下りる音。言葉とは裏腹で、すでに動いている。田島は言った。
「音がうるさいだけやから、エンジンだけ切っとったらいけるって」
「分かった。とりあえずセルシオ取りに行くわ」
戸波は電話を一方的に切った。田島はダイナの運転席で、考えた。戸波は二本の道の内、どちらへレクサスが行ったかを伝えてくる。それから道の反対側まで回って、バックで戻ってくればいい。それは橋野の役割だったが、そもそも、当初の中村の計画では、三人でできる仕事だったのだ。だから、時間はある。田島は、坂間の携帯電話を鳴らして、出るなり言った。
「ハッシーが抜ける。ゴルフのバッテリーが上がった。代わりにメットがセルシオで二役やる」
「外車はあかんな、しゃーない」
坂間はあっさりと言い、電話を切った。その口調から分かること。坂間は『外車』と言ったが、その主語は本当は違ったはずだ。田島は確信した。例え上手くいっても、これで坂間と橋野の仲は終わる。
セイコーの腕時計が四時を指したとき、植芝はシフトノブをパーキングに入れて、エンジンを止めると、穂坂に言った。
「到着です」
「ご苦労様」
先に降りた植芝がドアを開けると、穂坂は顔をしかめながら立ち上がり、スポーツバッグを肩に担ぐと、事務所に入って行った。専務の声が中で響く。穂坂の笑い声。毎週の恒例行事。植芝が立つ事務所のドアの前は、足形がつくのではないかというぐらいに、毎週同じ位置。出入口に視線を向けて一分も経たない内に、マフラーを改造した独特の排気音が遠くの方から聞こえてきて、植芝はパレットの方を向いた。ディーゼルの音ではない。調子がいい方でも、なさそうだった。穂坂はどれだけ長居しても、十分以上居座ることはない。だから、持ち場を離れるわけにはいかなかった。植芝は一度握りこぶしを作ると、力を解放するように開いた。ずっと鳴っていれば、出る時間を遅らせてでも確認すべきだと思ったが、耳障りなエンジン音は、すぐに消えた。
戸波は、セルシオのエンジンを止めて、大きく息をついた。夜中に走り回るには目立っていいが、直管に近いマフラーは、昼間だと迷惑この上ない。こういう目立てない状況では、あちこちがひび割れして艶消しの黒になっているセルシオは、最悪の選択肢だ。携帯電話で時間を確認した戸波は、四時を過ぎたことに気づいて、パレットの反対側にいるはずのレクサスGSを透視するように、目を凝らせた。車高を下げているから、運転席からだと、どちらの道へ行ったか判断しづらい。しかし、車から降りて突っ立っていたら、それこそ怪しいし、すぐに移動できない。ヘルメットがないから、顔は丸見えだ。様々な考えが押し寄せてきて、戸波はハンドルを握ったままため息をついた。これは、思ったより大変だ。ため息を吐き切らない内に、運転席の窓が鳴った。小石をぶつけられたのかと錯覚して、戸波は窓の外を睨みつけた。窓をノックするために軽く握られた拳が見えて、その後ろに制服のロゴが見えた。『石井セキュリティ』の文字。戸波は思わず、キーをオンの位置まで回すと、窓を下ろした。
「はい?」
「すみません、この倉庫に御用ですか?」
名札には『斉間』とあった。名前は分かった。見た目からすると、四十代後半か、五十代。石井セキュリティということは、ここの警備員だ。それも分かる。戸波は、頭の中に浮かんだことを、一切のフィルターを介さずに口に出した。
「交代やろ? こんな時間に、何してんねん」
その口調の無礼さに、斉間は露骨に顔をしかめた。戸波は、自分がどうして警備員の交代を気にしているのか、それを斉間に追及されるのではないかと思って身を引いたが、斉間が胸を張って返した言葉は、戸波の想像とは違った。
「警備ですよ。見回りです」
胸に光る鷲のマーク。そのロゴをぽんと叩いた斉間は、険しい顔のまま車を眺めた。改造車は気に食わないらしく、小柄な体が支えるその顔は、露骨に歪んでいった。
「もう一度尋ねますが、何か御用ですか?」
「いや、この時間は……、待てや、停めてたらなんか問題あるんかい」
「ここは、社有地です。入口に、御用のない方は立ち入りをご遠慮くださいと、書かれていますよ」
斉間は、入口を指差した。その融通の利かなさに、戸波はふと、坂間の『警備員はお菓子で買収できるぐらいにやる気がない』という持論を思い出していた。この警備員は買収どころか、自分のロゴを指差しながら、地の果てまで追ってきそうだ。
「御用、あるよ。あるから停めてんねん」
「どちら様宛てですか?」
「誰って? 斉間っちに決まってるやろ。元気にしとった?」
斉間はしばらく考え、それが自分を指していることに気づいて、歯を一度食いしばった。
「あのね……、不真面目にするのも、いい加減にしなさいよ。こんな改造車で、車検も通らないでしょ」
「それと社有地に、なんの関係があんねん」
斉間は業を煮やした様子で、メモ帳を取り出した。
「名乗りなさい」
「ミッキー三郎。ミドルネームはロドリゲスや」
斉間は、メモ帳に原因があるかのように、それをポケットへと戻した。戸波は即席で考えた名前に笑い出しそうになっていたが、攻撃用の口調を取り戻して続けた。
「大体、お前はこんな時間に何してんねん? さぼっとったんか?」
「私は交代までの間、前もって見回っていただけです。まだ入ったばかりで、不慣れなのでね」
「はよ来てんのか? 新人さん、ご苦労やな」
戸波はそう言った時、パレットの反対側で影が動いたことに気づいた。レクサスが出て行くのが一瞬だけ見えて、運転席から降りた。斉間は突然開いたドアの端で弾き飛ばされそうになり、バランスを崩したが、車の後ろに回ると、再度メモ帳を取り出した。戸波は、レクサスが入って行った道を目で見届けて、エンジンをかけた。凄まじい排気音に、斉間が飛び退いた。その手にメモ帳が握られていることに気づいた戸波は、言った。
「お前、何メモった?」
「ナンバープレートと、あなたの名前ですよ、ミッキー三郎さん。これ以上居座るなら、通報しますよ」
「もうええわ、ご苦労さん」
戸波は運転席に戻ると、田島の携帯電話を鳴らしながら、セルシオを急発進させた。小型貨物の出入口に差し掛かった時、豆粒のように小さく見える斉間に向けて、叫んだ。