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送ってから、それが本当に良いことなのかどうか、どれだけ考えても答えに辿り着けなくなっていることに気づいた。キャンパスの中を歩いていると、いつの間にか次のコマの講義が近づいていて、考える時間はさほど用意されていないことに気づいた。
午前五時のアラームが鳴るよりも前に、目は覚めていた。植芝は、ベッドサイドのテーブルに置かれた腕時計の針と、目覚まし時計の針の動きが完全に一致しているのを眺めながら、目が冴えていくのを感じた。ほとんど家具のない部屋で体を起こすと、そのままストレッチに取り掛かった。二〇〇六年二月十六日。木曜日。先週倉庫を訪れてから、一週間が経つ。木曜日のスケジュールは単純だ。廃倉庫の見回りから始まって、最後に中継ハブを訪れる。五時には穂坂を自宅に送って、またこの貸倉庫のような部屋に帰ってくるだけだ。レクサスGSは私物として使っていいことになっているが、怪我や病気を避けるために、私用で動かしたことはほとんどなかった。タイヤの空気圧、バッテリーの残量、そしてクーラントの量は、毎朝点検している。二十年前、海外生活が軌道に乗った時、当時は付き合い始めだった妻に言われた。『こんな神経質な生活をしていたら、持たないよ』と。植芝と同じ日本人だったが、自由で囚われない生活を求めて、海外に出てきたタイプだった。どうして付き合うことになったのか、今となっては思い出せない。植芝の性格は昔からで、高校生の頃は、強迫神経症を疑われた。常に同じ位置に物が置かれていないと気が済まないのは、自分でも分かっていた。それが整理整頓と思われている内は、学校で得意げな顔をすることもできた。しかし実際には、それは症状だった。
植芝は洗面台に立って、スタンドに立てられた歯ブラシの角度を調節した。柄の端が丸いから、夜中の内に向きが変わってしまうことがある。今日も同じだった。ブラシの減り具合を見る限り、今月の終わりに、買い替えることになるだろう。剃刀の替刃は、常に三セット用意されているが、これも今月の終わりには、一枚を消費する。四枚買っておく必要はない。替刃は、常に三枚が置かれている状態が望ましい。
病気を疑われたり、一緒にいて窮屈だと思われたりするのは、正直な話、気が悪い。だから、人生においてそれを指摘してきた人間は、二人とも殺した。一番強く記憶に刻まれているのは、死んだ後の顔。それは、記念碑のような役割を果たしている。植芝はコーンスープとパンだけの朝食を済ませると、歯磨きを済ませてヒゲを剃り、スーツに着替えた。バーバリーのネクタイとタイピンは、妻からの贈り物。セイコーのシンプルな腕時計は、父親からの、高校への進学祝い。生活の一部になっているし、手放すつもりはない。今は宝物に思えるのだから、二人ともこの世から消し去った甲斐があった。
植芝は一階の車庫に降りると、がらんとしたスペースに停まったレクサスGSの周りを一周した。ラテックスの手袋をはめて、タイヤのトレッドに異物がないか、一つずつ確認していく。膝をつかずに底を覗き込み、昨日帰ってくるまでの道で何かを巻き込んでいないかを、目で点検した。ボンネットを開き、冷却水の量がHとLの間にあることを確認すると、電動のシャッターを開きながらエンジンをかけた。バッテリーの電圧とタイヤの空気圧に続いて、ウィンカー、ハザード、スモールランプ、ヘッドライト、ブレーキランプが全て正常に作動することを確認した。植芝は運転席に座ると、ネクタイの位置を調節した。穂坂を迎えに行き、まずは河川敷まで連れていく。七時きっかりに、ジョギング仲間が待っている。
中村は、昼にならないと顔色が復活しない。橋野はそう聞かされていたが、初めて午前中に中村の顔を見て、田島の言葉が正しいということを思い知った。作業場に用意された、即席の食卓。中村は血の気が引いたままで、フライドポテトを一本つまんだ。
「すまんな、夜型やねん。まあ、食っとけ」
食卓にはハンバーガーが八個と、フライドポテトが六箱。スポーツドリンクとコーラが人数分置かれていた。田島は言った。
「いつも、昼過ぎんと顔色悪いですよね」
「やから、自営業やっとんのや」
中村は笑いながら、コーラを一口飲んだ。食べることに専念していた戸波が顔を上げて、言った。
「ごちそうさまです」
「食い終わったんか?」
「いや、途中です」
戸波が言うと、中村は笑った。
「食い終わってから言わんかいな」
少しだけ顔色が戻ったようになって、中村は煙草を一本抜いた。体にいいことは、何一つしていない。ありとあらゆるバイクのエンジン音を聞いているから、耳だけは鍛えられている。坂間が、橋野に言った。
「一個でいいん?」
「いいよ、あんまり腹いっぱいやと、眠くなるかもしれん」
橋野が真顔で言うと、坂間は自分の前に並んだ三個のハンバーガーを見て、笑った。
「ほな、寝たらええがな」
中村が、煙草に火を点けながら首を横に振った。
「それは困るな。慎重なんはええことや」
中村のおごりの昼食が終わり、油とケチャップの咽かえるような匂いだけが残った作業場で、田島と橋野がテーブルを片付けるのを待ちかねていたように、中村は地図を広げた。四人のために用意した覆面を並べると、坂間が思わず笑って、すぐ真顔に戻った。
「ここな。例の倉庫。道は二本ある。小型と大型で分かれてて、間にパレットが山積みになっとる」
L字型の建物。赤丸は二カ所に付けられていて、中村は小型貨物の駐車場側を指差した。
「ここから、どっちの道に行ったか分かる。戸波は、それを見届けたら、田島に電話や」
戸波は数回瞬きすると、うなずいた。中村は、大型貨物の駐車場につけられた印を指差した。
「穂坂のおっさんは、こっちに寄る。例のレクサスや」
町中で撮られた写真に写る、レクサスGS。田島はナンバープレートに目を凝らせると、うなずいた。中村は、二本の道にそれぞれ、赤いマーカーで印を足した。
「ここで止めろ。田島が四トンを出して、前を塞げ。切り返さな戻られへん道やから、バックするしかない。そこで坂間の出番や」
坂間は、スクーターを用意されていた。何の変哲もないライトブルーのジョグで、今も作業場の隅に停められている。中村は言った。
「バックしてきたら、進路にこいつを倒せ。レクサスは後輪駆動やからな。ケツから乗り上げたら動けんようになる。そこは、このドライバ―次第やが」
写真にぼんやり写る顔。橋野は、それをもう一度眺めた。何も考えていないように見える。運転の事どころか、本当に何も頭には浮かんでいなくて、小さな電池一個で動いているような。
「橋野くんは、田島が道を塞いだのを確認したら、三人が逃げれるように、進行方向からバックで戻って来てくれ。車二台分ぐらい空けてくれよ。ナンバー渡すから、仕事の直前に交換な。家の周りで換えたらあかんぞ」
橋野はうなずいた。中村は、ナンバープレートを二枚手に取ると、マイナスドライバーとプラスドライバーを一緒に並べて、橋野に差し出した。
「マイナスで封印めくって、プラスでナンバー自体を取り外しな。オッケー?」