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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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「ハッシー、競技やってんの?」
「やってない。でも、めっちゃ運転しやすい」
 九七年型のゴルフGTI。色は深いグレーで、ステアリングは革張りだった。ドアは四枚あり、逃げることを前提に選ばれている。港湾道路の九十度コーナーを練習で数回抜けて、サイドターンを披露しただけだが、橋野が乗せる三人は、その腕前に感心した様子で、田島はドアハンドルにしがみついたまま、笑顔で言った。
「お前、マジでレーサーなれるで」
 フロントタイヤが食いつき、車体が想像以上の鋭さで向きを変える。ギアチェンジはおぼつかないが、ゴルフのエンジンはどの回転数でも澱むことなく回った。
「この辺にしとく?」
 橋野が言うと、坂間が後部座席から顔を出した。
「もう一回、サイドターンお願い!」
 田島が辺りを見回して、人影がないことを確認すると、戸波が座席に体を押しつけた。リクエストした本人の坂間も、座席に戻った。橋野は二速を保ったままアクセルを開けて、ステアリングを一度逆に振ると、クラッチを踏み込みながら右に大きく回し、サイドブレーキを引き上げた。車体が百八十度向きを変え、坂間が後部座席から歓声を上げた。
「ヤバイ!」
 こんなところで才能を発揮すると思っていなかったが、教習所に通っていた頃から、車の運転には自信はあった。橋野は、三人がバイクを停めた路肩まで送ると、田島に言った。
「親に没収されたら、諦めてや」
「それは困るわ。どうしても無理なら電話くれ」
 無理なんてことは、あってはならない。橋野はそう理解していながら、田島の一言に少し胃が軽くなったように感じて、笑顔を見せた。
「ほな」
 帰り道、若干目が回っているように感じた。あの三人は大丈夫なのだろうか。そう思いながら、橋野はゴルフのステアリングを幾度となく握り直した。自分の人生と全く接点のない車は現実感がなく、自分が操作しているというよりはゲームの中の世界に近い。ただ、ハンドルを切らずにガードレールにぶつかっても、ゲームのように跳ね返ったりはしないという点だけが、違った。車庫のシャッターを開けて、あまり空ぶかしをしないように後退させて、アルトの隣に停めた。同じような形をしているが、二回りぐらい大きく見える。
 若干焦げ臭い匂いは、クラッチだろうか。橋野は静かにドアを閉めると、ゴルフのキーが加わって少し重くなったキーホルダーを手の中で転がしながら、家に続くドアを開けた。靴を玄関に置いて、洗面所に向かったところで、直弘が言った。
「兄ちゃん、車で帰ってきた? めっちゃブオンブオン鳴ってたけど」
 直弘は十七歳になった。年々理論的になってきて、目すら数式で作られているように、その動きは機械じみている。『年齢の割にしっかりしている』ということなのかもしれないが、どこか説教くさい。橋野は、人差し指を立てると、口元に当てた。
「言うなよ」
「いや、言わんけど。明日には見つかるんちゃうん」
 仰る通りだ。橋野は苦笑いを浮かべると、直弘の目の前に鍵をちらつかせた。いつもの束に追加されたゴルフの鍵を見て、直弘は目を輝かせた。
「マジ? 外車やん」
「まあな。俺のやないんやけどね。一週間ぐらい置かせてもらうわ」
「いや、兄ちゃん乗りこなせるん? そっちの方が凄いわ」
 車庫に入って行こうとする直弘の体を掴んでやめさせると、橋野は言った。
「あんま騒がんといてくれ」
「フォルクスワーゲンやんな? なんて車?」
「ゴルフGTI。VR」
 橋野はそこまで言って、鍵を閉めていないことに気づいた。
「鍵かけてないわ。ついてくんなよ」
「いや、ついてくし」
 直弘が笑いながら言い、橋野は大きくため息をついた。
「なんやねんお前は。兄貴好き好きモードか?」
「キモいな。てか、車庫に入ってんのに鍵なんかかけてたら、何か隠してるみたいやん。余計怪しまれるで。死体でも入ってんの?」
「入ってないわ。とりあえず、今はやめろ。明日出る時に、ゆっくり見ていけ」
 直弘は、納得したように車庫へ続くドアから手を離すと、突然思い出したように、階段を駆け上がっていった。その足音があまりにも大きく、寝室にいる両親が起きてくるのではないかと、橋野は不安を覚えた。さらに大きな足音を鳴らしながら戻ってきた直弘は、ホームセンターの袋に入った黒いクッションを差し出した。
「枕。車買ったらあげようと思っててん。初心者の運転は、居眠りが一番危ないらしいよ。やから、これでちょいちょい休んで」
 橋野は小さく息をつくと、袋ごと受け取って、笑顔で言った。
「ありがとう。優しいな。自分の車ちゃうけどな」
「誰の車でも、眠くなるんは一緒やろ」
 直弘の毅然とした言い方に、橋野は笑った。理論的だ。一緒に階段を上がり、自分の部屋に戻っていった直弘の背中を見送ると、橋野は自分の部屋に入った。このタイミングでプレゼントを貰うとは思っていなかった上に、直弘の心配そうな目には、本音しか含まれていないように見えた。でも、止まるわけにはいかない。来週、あのゴルフのハンドルを握ったら、安全が確保される瞬間まで死ぬ気で走り続けなければならない。
     
 バイト先のガソリンスタンド、そこから一番近いコンビニ、棚の二番目でいつも余っているサバの缶詰、冷蔵コーナーでコーヒーに押され気味の野菜ジュース、時折売り切れている納豆。ライン作業のように味気ないが、戸波は毎日の生活をできるだけ単純にするよう、心掛けていた。一人で住むアパートは、自分の豪快なくしゃみで崩れるのではないかと思えるぐらいに、あちこち錆びてヒビが入っており、心もとない。それでも、風呂、トイレ、キッチン、一通り揃っている。バイク用の駐輪場は原付までとなっているが、管理人の厚意でホーネットを置かせてもらっている。先輩から託された傷物のセルシオは、港湾道路に放ってあった。放置自動車に混じっていて、不動のようにも見えるが、いずれ目ざとい誰かが見つけて、運が良ければ盗んでくれるだろう。自分から火の粉を払えれば、それで構わない。
 単純さを選んだのは、一人暮らしを始めるまでの共同生活が複雑すぎた反動だった。高校に上がる頃には不動産系の雑誌を立ち読みしていて、バイク雑誌を読んでいる田島と坂間にはよく笑われた。戸波は、錆びついた階段を二段飛ばしで上がり、二〇四号室の鍵を開けた。インテリアにこだわりはない。収納のことも、特に深く考えていない。しかし、この空間には自分しかいないのだ。戸波はいつもの夕食が入ったコンビニ袋をテーブルの上に置くと、髪をオールバックにして、ピンで留めた。額の右半分に残る、大きな火傷の痕。これを知っているのは、行きつけの散髪屋と、田島の二人。後は、共同生活を営んでいた『動物たち』。アイロンで遊んでいたのだと、あちこちで言い訳をしている内に、本当にそうだったのではないかと思えてくる時もあった。アイロンで遊んでいたというのは間違いない。母親が、自分の息子の額をアイロン台代わりにして遊んでいたのだから。
作品名:Split 作家名:オオサカタロウ