入眠逢瀬
5.接吻
「かぁー。大叔父さん奥手もいいとこだねえ。さっさと抱いちまえばいいのに」
想太はそう言って寿司にしょうゆをつけ、口内に放りこむ。すでに眠気は吹っ飛んだらしい。
「でも、兄さんお店でしか経験ないはずですよね。人のことどうこう言える立場なんですか?」
春太は次の線香に火を点けながら、兄に鋭く指摘する。
「お、俺のことは別にいいだろう。早く続き、話してくれよ」
弟の指摘に動揺した兄は、慌てて先を促した。
「はぁ……」
翌日、紀三郎は心底落ち込んでいました。その理由は、昨晩同衾に関する誤解を灯さんに解くことができないまま、眠りに落ちてしまったことです。さらに、それだけではありません。女性にあれだけ肌をさらさせておいて、指一本触れなかったのです。それが女性にとってどれだけ失礼なことかであるかは、少年である紀三郎もそれなりに分かっていました。それだけひどいことを、大好きな灯さんにしてしまったのです。もう自分の元には来てくれないかもしれない、そんな思いがまた紀三郎の胸を締め付けるのでした。
しかし、新たに幾つか分かったこともありました。まず最初に、灯さんがこちらの話をよく聴いてくれるとても優しい人であるということ。次に理由こそわかりませんが、あまり自分のことを語りたがらない人であるということ。最後、これが紀三郎にとってもっとも有益な情報ですが、彼女がここに来る条件がおぼろげにわかったことです。
紀三郎は、灯さんに出会った過去3回の状況を思い返してみました。そして、その3回に共通する3つの条件を見つけ出したのです。1つは夜中であること。次に勉強をしている最中であること。最後に、何か悲しいことがあったり嫌なことがあったりして自分の精神が不安定な状況であること。最後のは単なる偶然の可能性が高いですが、それを差し引いても彼女がここを訪れる可能性が高いのは、夜中の勉強中であることがわかったのです。
ですが、それがわかっても、紀三郎はあえてその条件を整えようとはしませんでした。なぜなら、先述の通り、先刻彼女に失礼なことをしてしまっているからです。条件の通りにして彼女が来てくれなかったら、こないだのできごとに腹を立てていると考えて十分差し支えないでしょう。そうなったらもう彼女に永遠に会うことはできないのです。その事態に直面してしまうのが何よりも怖かったのです。
なので紀三郎はしばらくの間、その条件を回避して生活していました。機嫌の悪い日は明るいうちに勉強をすますようにし、良いことがあった日もなるべく夜中の勉強を避けるようにしたのです。
案の定、そうしている間は灯さんが現れることはありませんでした。しかし、紀三郎は重要なことを失念していたのです。灯さんに逢えない、そのことが少しずつ自分の心を蝕み、暗い気持ちに落としていくということを。
その日の夜、紀三郎は知らぬうちに灯さんへの恋しさを心中に秘めつつ、勉強をしていました。すると、いつものように急激な眠りに襲われ、眠り込んでしまったのです。目を覚ました時、紀三郎は今まで通りの背後の気配にホッとしました。意図せず条件が整ってしまったとはいえ、彼女が来てくれないという最悪の事態は回避されたのです。紀三郎は喜び勇んで振り向き、いつものように布団に座って待っている灯さんに、挨拶もそこそこに前回の非礼を侘びました。
「いえ、いいんです。それはそうと、ご無沙汰しておりました」
灯さんはそう言って手をつき、頭を下げます。今まで挨拶をしなかったり、名前を聞いただけで眠り込んでしまったり、こちらに非があることばかりなのに、いつも彼女は笑って許してくれるのです。
紀三郎はこないだのように灯さんと布団に座り、逢えなかった期間のいろいろなことを話しました。灯さんも前のように、その話を包み込むように受け入れてくれます。
そうこうしているうちに話が尽き、小屋の中を静寂が支配します。灯さんは首を傾げ、いつもの愛くるしい笑みで紀三郎に言うのです。
「紀三郎さん。今日はお布団でご一緒してもよいですか?」
そして、立ち上がってワンピースのファスナーを下ろし、まとっている真っ白なワンピースを布団の上に落として、こないだと同様のキャミソール姿になりました。
紀三郎は灯さんの突然の大胆な行動に、またもやドギマギしてしまいます。前回までの間に、もう彼女に逢えないかもしれないということは数え切れぬほど考えましたが、こうやって再び逢うことができて、さらに同じような展開になるということは全く考えていなかったのです。でも、2度も断るわけにはいきません。これ以上灯さんに恥はかかせられませんし、今度こそ逢ってくれなくなってしまうかもしれません。
(それに……)
紀三郎のほおはみるみるうちに赤らんでいきます。もっと灯さんの近くに行きたい、できることなら灯さんに触れたい、そんな考えで頭がいっぱいになってしまったのです。
「……はい」
紀三郎は消え入りそうな声で灯さんに答えます。そしておずおずと自分の布団に入り込み、横になりました。
「それでは、失礼しますね」
キャミソール姿の灯さんは、そう言ってしずしずと掛け布団と敷き布団の間に、自らの身体を滑り込ませます。そしていつも布団を半分こしているように枕の半分に頭を乗せ、もう半分の枕に頭を乗せている紀三郎と向かい合わせになりました。ほんの数寸という間近な距離に灯さんの笑顔があるのです。さらに、前にも嗅いだいい香りがさらに強く鼻孔をくすぐるのです。
紀三郎はもうどうしたらいいか、わからなくなってしまいました。ただでさえ今のこの状況が夢のようなのに、これ以上何をしたらいいのでしょう。彼は気恥ずかしさで、灯さんから目を逸らしてしまいます。こんな汚くて臭いオンボロ小屋のせんべい布団の中に、こんなに可憐なお姉さんがいていいのでしょうか。それに汚いのは小屋だけじゃありません。紀三郎自身だって汗じみまみれの古臭い着物で、決してきれいとは言えないのです。そう考えると、こんなに近い距離にいるのに彼女に触れることを躊躇してしまいます。肉体ではなく精神でもなく、なにかうまく言えないものが、自分と彼女をしっかりと隔てている、そんな気すらしてしまうのです。
全く動けないまま思考だけがめまぐるしく回転している最中、紀三郎の目線はたまたま灯さんの唇に注がれていました。彼女はその視線に気づくと、紀三郎の顔を両手でそっと持ち上げてささやきます。
「唇がご所望ですか。では、差し上げますね」
その声が聞こえた刹那、紀三郎は自分の唇に何かがぷにゅっと当たる感触を感じました。ハッと思い我に返ると、目の前には灯さんのきれいな目。しかも真っ直ぐこちらを見据えています。すぐ下の鼻は、擦れ合うほど近づいて互い違いになっているのです。
ここまで来てやっと紀三郎は、自分の唇にあたっているものが、灯さんのそれであることを理解しました。しかし、その戸惑いと喜びを味わうのもつかの間、またもや眠気が襲いかかってきてしまいます。重くなるまぶたと戦いながら、紀三郎は大好きな灯さんと接吻した喜びを噛みしめるのでした。