入眠逢瀬
4.同衾
「灯さん、かぁ……」
紀三郎は数日の間、可憐で美しくてまさに彼女にぴったりなその名前をつぶやくたびにため息をつき、ニッコリ笑った彼女の顔を思い浮かべてばかりいるのでした。
彼女の名前がわかったことも喜ばしいのですが、それ以上に紀三郎にとってうれしかったことがあります。それは彼女が、夢の中の存在ではないということです。どこからやって来ているのか、どうやって小屋を出入りしているのかなどの疑問は残りますが、再び彼女と逢えて話すことができたのですからその存在は確かです。彼にとっては、それが何よりも幸せな発見でした。
紀三郎は上機嫌で、灯さんを思い出してはニヤニヤします。でも、急に眠ること以外はまともだった紀三郎が、今度は授業中などにニヤニヤするようになってしまったのです。教師たちの中には、そんな紀三郎を本格的にだめになってしまったと思う者もいました。例えば、紀三郎を受け持っている体育の教師。彼もその一人だったのです。
体育の授業中、相変わらず紀三郎は灯さんのことを考えてニヤニヤしていました。それを見てたるんでいると思ったその体育教師は、彼をしたたかに平手打ちし真面目に授業に取り組むよう注意したのです。
この仕打ちに紀三郎は憤りました。元々体を動かすことが苦手なので、体育教師と反りが合わなかったという理由もあったのかもしれません。ともあれ、体育教師に理不尽に頬を張られたため、紀三郎は腹立たしさを覚えたのです。でも相手は教師です。所詮腕力では勝てませんし、下手に反抗したら、さらに成績を下げられてしまいかねません。紀三郎は痛むほおをさすり屈辱にまみれながら、他の生徒たちから笑われるしかありませんでした。
その夜、昼間の悔しい出来事を反芻しつつ勉強に打ち込んでいると、いつものように眠気が襲ってきます。今回も紀三郎はそれに抗えず、開いたノートに顔をうずめて眠ってしまいました。
目が覚めたとき、紀三郎は待ち望んだ時間の到来を知りました。変わらない小屋の風景、唯一違う背後の気配。紀三郎は、嬉しさに胸を躍らせながら振り向きます。そこには以前と同じワンピース姿で、灯さんが布団の上に座っています。紀三郎はやにわに席を立ち挨拶をしたのです。
「こ、こんばんは」
3回目で慣れもあるのでしょうか、案外うまく言えたその挨拶に、灯さんは満面の笑みで応えてくれます。
「はい。こんばんは」
この間も見たその愛くるしい笑顔に、またもメロメロの紀三郎は立ち尽くしてしまい、考えがまとまりません。そんな紀三郎に灯さんは声をかけるのです。
「良かったら、お話をしませんか」
そう言うと灯さんは立ち上がり、二つ折りの布団を広げました。
「どうぞ」
広げたあと灯さんは、その布団に再び座り直します。あなたも布団に座って、ここでお話をしましょう、という意味なのでしょう。紀三郎は夢遊病のように、フラフラと布団に座ります。いつもはぺったんこなせんべい布団が、今日はやけにふわふわに感じました。
紀三郎が顔を上げると、近くに灯さんがいます。相変わらずの愛くるしい笑顔、きれいでかっこいい断髪、透けるような色の白い肌、その腕に挟まれて程よくふくらんだ胸……。初めて会ったときから焦がれていた灯さんが、こんな近くにいるのです。
それだけじゃありません。近寄ってからというもの、何かふくいくたるいい香りがします。香水でしょうか、彼女特有の匂いでしょうか、それとも女子はみんなこんないい匂いがするものなのでしょうか。紀三郎は視覚と嗅覚とを翻弄されながら、何か話そうとします。しかし考えがまとまりません。すると、灯さんのほうが先に口を開きました。
「何か、お嫌なことがあったご様子ですね」
そうだ、それがあったじゃないか。紀三郎は今日の体育のできごとを、灯さんに詳しく話します。でも、ニヤニヤしていた理由が灯さんの事を想っていたから、というのだけは恥ずかしいので伏せておきました。
「それは、お辛かったですね。平手打ちは、ひどいです……」
「でも紀三郎さんは、ちゃんと我慢されたんですね」
灯さんは、積極的に意見を言うことはありませんでした。でも、ひたすら紀三郎の言うことを肯定し、否定することもありませんでした。それは、紀三郎の優秀さをちゃんと分かっていて、自分の頭で考えればこの少年は最適な答えを導き出せるはずだと信じ切っているかのようでした。
一つ話し終えるともう止まりません。紀三郎は灯さんに自分のことを話したり、彼女に対して質問をしたりします。自分は勉強が得意なこと、今は急に眠ってしまうのでこの小屋にいること、きっと治して将来は偉くなるって決めていること……。
これらの話に対しても、灯さんは飾り気のない言葉や相槌で肯定してくれます。今まで教師や両親から言われてきた、「お前のため」と言いつつどこか自分のためではなさそうな言葉たち。それらにしか触れてこなかった紀三郎にとって、彼女の言葉は涙が出るほどうれしいものでした。
しかし灯さんは、質問にはとたんに言葉少なになってしまいます。どうやってここに来ているのか、なんで自分を知っているのか、普段は何をしているのか……。こういった問いには、曖昧な笑顔を浮かべるだけで何も言ってはくれません。唯一教えてくれたのは、彼女が自分より3つ上の17歳、ということだけでした。紀三郎は、彼女が答えない質問は無理に問いたださないようにしよう、そう思ったのです。
そうやって時を過ごしていると、夜も更けてきます。今日は調子がいいのか、眠気はまだ襲ってきません。しかし、急にやって来るものなので油断は禁物です。灯さんにさっき眠ってしまうことを打ち明けたとはいえ、やはり急に眠られたらあまりいい気分はしないでしょう。そう考えた喜三郎は、彼女に一つの提案をしました。
「灯さん。一緒に布団に入りませんか」
そう、布団の中なら会話の最中に寝てしまっても、それほど不自然ではありません。紀三郎は純粋にそう考え、女性にそんな提案をしたのです。
灯さんはしばらく躊躇していましたが、やがて小さな声で言いました。
「わかりました。紀三郎さんなら……」
そう言った直後、立ち上がって両手を背中に回します。そして何やらしていたかと思うと、するんと真っ白なワンピースが床に落ちたのです。
「え……」
紀三郎は突然のできごとに驚きつつ、彼女をまじまじと見てしまいます。立ち上がっている彼女は腰丈のキャミソール姿なので、座っている紀三郎からショーツが丸見えです。しばらくそれを眺めたあと、自分が重大なことを言ってしまったと気づいた紀三郎は、思わず布団から飛びすさりました。
「ごめんなさい! そんなつもりは……」
灯さんは恥ずかしそうに、自分の体のラインを手で隠し、言いました。
「いえ、いいんです。紀三郎さんも殿方ですし」
確かに紀三郎も男です。灯さんのあられもない姿が見たくないわけではありません。でも今回は本当に違うのです。もっと灯さんと話したい、でも自分は寝てしまう、だからこの提案をしただけなのです。
誤解を解こう、そう思った途端急に眠気がやってきます。たちまち紀三郎はガクンとくずおれて、下着姿の灯さんを残したまま眠りについてしまったのです。