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入眠逢瀬

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3.名前



 翌朝目が覚めても、紀三郎は昨晩のお姉さんのことが忘れられませんでした。真っ白なワンピース、きれいで透けるような肌、おしゃれな断髪、吸い込まれそうな丸い眼……。登校の準備をしながら紀三郎は、もう一度彼女に会いたいと願います。でも彼女は、再びこの小屋に来てくれるでしょうか。紀三郎は考えますが、どう考えてもやってきてはくれないような気がするのです。
 まず、会話はおろか挨拶もろくにできなかったこと、これはもう大失点です。彼女が「お慕い申し上げております」とまで言ってくれたのに、こちらはその直後眠りこけてしまったのです。これには彼女も、呆れ果ててしまったに違いありません。次に、小屋が汚いことも気になりました。あんなおしゃれできれいな女の子が、こんな汚くて臭いのこもる小屋の中に長時間いることを好むでしょうか。眠ってしまうという失態を演じなかったとしても、早晩彼女は立ち去ってしまったような気がするのです。紀三郎は改めて、自分の眠りこけてしまうという悪癖を恨まざるを得ませんでした。最後に、これはあまり考えたくないことですが、あれはただの夢だったんじゃないだろうか、そんな考えも一瞬紀三郎の頭によぎります。冷静に考えれば、こんな小屋にあんな今時の可愛い女の子が来て、さらに自分を慕っているなんて言い出す、そんな話が夢でないはずがないのです。どう考えてもこの可能性が一番濃厚なのですが、ことここに考えが至ると紀三郎の胸はチクチクと痛むのです。
 そろそろ学校へ行かなければならない時刻となりました。紀三郎は自分に言い聞かせるようにつぶやきます。
「どうせ、ただの夢だったんだ。じゃなかったとしても、もう二度と来てくれないよ」
そうして、今日も針のむしろに座るような心持ちのする学校へと向かったのでした。
 普段どおり、眠りこけては先生に呆れられる学校の授業を終え、紀三郎は小屋へと帰ってきます。そしていつものように机に向かいました。今朝、あのようなことを吐き捨てて学校へ行った紀三郎でしたが、やはりどこか心の奥底に、今日も来てくれるかもという期待を捨てきれずにいるのです。
 来てくれたら何を話そうか。まずは昨晩のことを謝らなきゃ。それに自己紹介もしなきゃ。あれ、でもそう言えば僕の名前知ってたな……。期待が胸いっぱいに膨らんで、とても勉強どころではありません。彼女が来たときの予行演習をあれこれしているうちに、床に就かなければ明日に差し障りが出る時刻となってしまいました。
「……ほら、思ったとおりだ。来るわけなんかないよ」
強がってはみたものの、紀三郎の顔には落胆の色がありありと浮かんでいました。彼はそんな現実から逃避するため、畳んでいた布団を広げて潜り込みます。しかし、それでもまだ諦めきれません。今日はたまたま来れなかっただけ、きっと明日は来てくれるはず。この布団に座っていた彼女の面影を思い出しつつ、紀三郎は眠りについたのでした。
 しかし、それ以降もあの女性が小屋に現れることはありませんでした。3日、5日、一週間、その間ずっとあのきれいなお姉さんは紀三郎の前に姿を見せることはなかったのです。
「やっぱり、あれはただの夢だったんだ。あんな子が、こんな小屋に来るわけないもんな」
記憶がどんどん薄れていくこともあって、紀三郎はだんだんそういう考えに傾いていきます。あの日以降、勉強をしながら時折チラチラの後ろを振り向いていた紀三郎でしたが、少しずつその頻度も減っていったのです。
 そうして2週間ほど経ったある日のこと。その日の学校は午後から休みだったため、紀三郎は両親の畑仕事を手伝っていました。彼は体を動かすことは不得意でしたが、畑仕事はいい気分転換になるので、楽しみにしていました。両親も人手欲しさで、時々畑仕事の手伝いをするよう言ってきたのです。
 その日も紀三郎はゆっくりと自分のペースで畑仕事をしていました。しかし彼の作業スピードではやはり少ししか作業ができません。大半の作業をさっさと終えた父と母は呆れて言いました。
「勉強もろくに出来ない上にこのざまじゃ、こいつは跡継ぎにもならんな」
 日が落ち、泥だらけで小屋に戻ってきた紀三郎は、涙をこぼしました。以前は自分のペースでゆっくりやればいいと言ってくれたのに、学校の評価が下がっただけでこの仕打ちです。何という手のひらの返しっぷりでしょう。紀三郎はどうしようもなく悲しくて仕方がありませんでした。
「やっぱり僕には勉強しかない。勉強でみんなを見返してやる」
喜三郎はそう決心し、泥だらけのまま明かりを点けて机に向かいます。しかし怒りに任せて勉強しても、うまくいくはずがありません。その上、両親に言われた言葉がよほど骨身にこたえたのでしょう。次から次へと涙が溢れ出してきました。そんな中で勉強を続けていると、体を動かした疲れが出たのか、眠気も襲ってきます。紀三郎の頭は少しずつ重くなり、またもや机に顔に伏せて眠りについてしまったのです。

 再び目を覚ますと、やはりそれほど時間が経っていないように思えました。そして背後には、以前感じたあの気配がはっきりと感じられたのです。
「!」
紀三郎は、今度は素早く振り向きます。すると折りたたまれた布団の上に、あのお姉さんがまたも白いワンピースで座っていたのです。
「ご無沙汰してすみませんでした。紀三郎さん」
彼女は前のように手をついて頭を下げ、首を傾げてにっこり笑いかけてきます。
「いえ、そんな……」
紀三郎は恐る恐るそれに応えます。しかし、彼は自分が泥まみれなことに気づきました。畑作業を終えてきた泥まみれの自分と、洗練された白いワンピースの彼女は、ほんの少ししか離れていないのに永遠の距離があるように思えました。
(今度こそ、何か言わなきゃ……)
紀三郎は前と同じ事を考えて、脳内をフル回転させます。しかしあれだけ予行演習したのに、やっぱり何を言えばいいのかわかりません。でもそうこうしているうちにまた眠気が襲ってきてしまったら、今度こそ愛想を尽かされてしまいます。紀三郎はとにかく思いついたことを、布団の上に座る彼女にぶつけました。
「あの……、お名前は?」
声をかけた瞬間、心臓がトクンと高鳴るのを感じました。こんな素敵なお姉さんと話をするだけで夢のようなのに、名前を聞くなんてそんな大それたことをしても許されるのでしょうか。
 彼女は、そんなことを思う紀三郎の目をしっかりと見て、その問いかけに応えます。
「灯籠のとうと書いて、『とも』っていいます。よろしくおねがいしますね。紀三郎さん」
「灯……さん?」
紀三郎は、ゴクリと生唾を飲み込んでから聞き直します。
「はいっ、灯です。」
お姉さんは少しおどけて元気に返事をし、前のようにニッコリ笑います。その笑顔の愛くるしさときたら! 紀三郎はすっかりメロメロになってしまいました。
 しかしその直後にまた、あの憎き眠気が空気を読まずに入り込んできます。紀三郎は歯をぎりぎりと食いしばり、彼女との時間を引き延ばそうとしますが、やはりそれはかないません。黒いシャッターが再び彼女の姿を閉ざし、紀三郎は眠りについていました。


作品名:入眠逢瀬 作家名:六色塔