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入眠逢瀬

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2.出会



「要するに、大叔父さんが苦労したって話だろ? そんなに面白くなさそうだなあ」
想太はここまで話を聞いたところで、大あくびをして退屈の意を示す。
「兄さん、前置きが長かったのは認めます。でも話はここからなんです」
春太はそう言って、再び語りだした。

 気持ちを切り替えて翌日を迎えた紀三郎でしたが、待っていたのは相変わらず過酷な現実でした。起きて学校へ行く準備をしていると、父親が農具を取りにやってきます。小屋の扉を開いて息子を一瞥した父は、紀三郎を見るなり大声で吐き捨てました。
「この穀潰しが」
 学校に行っても、とても肩身の狭い思いをさせられました。仲の良かった友人は、もう誰も紀三郎に気さくに話しかけてはくれません。まれに話しかけてくる者はいても、どこか距離を感じる通りいっぺんの言葉ばかり。それならばいっそ話しかけてくれるな、紀三郎は心中でそう思うのでした。
 その代わり、新しく話しかけてきてくれる学友もいました。そのどちらかといえばあまり成績の良くない子たちは、新しい仲間ができたと思ったのでしょう、下卑た口調で紀三郎に仲間になるよう誘ってきます。紀三郎は最初の方こそ丁寧に受け答えをしていましたが、話が噛み合わないことが多く、次第にバカバカしくなってしまいました。別にお高く止まっているつもりはありませんが、やはり根本的に考え方が違うのでしょう。彼らもそれに薄々感づいたようで、会話が途切れるとすぐに立ち去ってしまいます。こうして紀三郎は、孤独で休み時間を過ごすのでした。
 授業中の教師たちの態度も相変わらずです。もう叱ることすらしない彼らは、眠り込む紀三郎を目の当たりにしても何も言いません。ただただ淡々と、授業を進めていくだけなのです。これなら以前のように叱ってくれたほうがまだましだった、紀三郎は眠りこけた瞬間、思い切り机にぶつけたおでこをさすりながら、おでこ以上に心を痛ませるのでした。
 昨晩は意気揚々としていたはずなのに、たったの一日で心が折れてしまった紀三郎は、失意にまみれて再び小屋に帰ってきました。昨日掃除をして、少しは住みやすくなったように思えたこの場所も、今改めて見てみるとやはり人が住むべきではない、ただの農具小屋にしか見えないのです。
 日が落ちて夜になったので、紀三郎は明かりを点けて机に向かい、日課である勉強を始めました。しかしこのような沈みきった心持ちでは、なかなか捗りません。その上いつもの眠気が紀三郎を襲ってきて、フラフラと頭が揺れ動き始めます。最初は何とかこらえていた紀三郎でしたが、ついに机に突っ伏して、眠りだしてしまいました。

 目を覚ますと、それほど時が経っている様子はありませんでした。開いたノート、鉛筆や消しゴムの位置も同じ。机も椅子も、壁の農具も、臭いが抜けていない小屋の空気も、全てが眠りにつく前と全く同じだったのです。
 ですが一つだけ、紀三郎には違うと思えるものがありました。自分の背後、ちょうど布団の辺り、そこに誰かがいる気配がするのです。誰だろう、こんな勘当同然の息子の様子を両親が見にくるわけはないし……。ボロ小屋とはいえ一応鍵はかけているので、泥棒という可能性も考えづらいのです。
 紀三郎は気配の正体を探るべく、上半身をゆっくりよじって後ろを振り向いていきます。イノシシでも入り込んできたのか、それとも何か恐ろしい化け物でもいるんじゃないか、そんな突飛な想像が紀三郎の脳裏によぎり、思わず目をつむってしまいます。
 再び目を見開いたとき紀三郎の視覚が捉えたのは、なにか白いものがそこにいるということだけでした。それから徐々にピントが合い、その全貌が明らかになっていきます。
 次に明らかになったのは、透き通るほどきれいな人の手でした。それが白色の中央よりやや下で、丁寧に重ねられています。そこから目線を下にやると、白色は布団の少し上で途切れ、そこと布団の間には手と同じくきれいな膝頭が二つ、行儀よく並んでいるのです。一方で目線を上に送ると、重ねられた手から伸びてる腕に挟まれた白色の部分は、ゆったりとした膨らみを帯び、その少し上で尽きた白色のさらに上には、美しい鎖骨が垣間見えます。更に上の細い首の上には、断髪の髪の毛、紅々とした唇、スッと通った鼻、そして丸っこい吸い込まれそうな二つの目が存在していました。
 紀三郎は、我を忘れてその物体を眺めてしまいます。物体? いや、どう考えても洋装の女の子です。女の子と言っても紀三郎より数歳年上に見える、白のワンピースを着たお姉さんが、二つ折りの布団の上で正座をしてこちらを見ているのです。
 紀三郎が洋装の女子をちゃんと見るのは、このときが初めてでした。もちろん写真などで見たことはありましたし、街へ出かけたときにチラッと見かける事もありましたが、都会から遠く貧しいこの村では、身近な女性はまだこんなおしゃれな格好をしてはいなかったのです。
 ですから紀三郎は、この謎の女性の美しさにも圧倒されてしまいましたが、それ以上に彼女の服装や出で立ちに気後れを感じてしまいました。この洗練された、当時の言葉で言うモダン・ガール、略してモガに対し、埃っぽくて臭いのする小屋の中に古臭い着物でいる自分が、とても恥ずかしく思えてきてしまったのです。
(……せめて、何か言わなきゃ)
紀三郎は食い入るように彼女を見つめながら、そう考えました。でも思考が無駄にグルグル回転して、言葉になりません。どうやって入ってきたんですか? 何でこんなところにいるんですか? 素敵なお召し物ですね……。この場にふさわしい言葉はいくらでも湧いてくるのに、いざ発しようとすると、どれも不似合いに思えてしまうのです。
 紀三郎は彼女に釘付けのまま、そうやってドギマギしていました。すると、粗末な布団に座る彼女は目を細め、小首を傾げてニッコリと紀三郎に笑いかけたのです。そして布団に手をついて一度深々と頭を下げ、鈴の音のような可愛らしい声音で紀三郎に話しかけました。
「こんばんは、紀三郎さん。私、あなたをお慕い申し上げておりました」
紀三郎は耳を疑いました。こんなきれいな女性など、知り合いにはいません。それなのに『お慕い』だなんて……。
 彼女の言葉を受けて、紀三郎の胸は早鐘のように高鳴りました。いくら勉強ばかりの毎日とはいえ、紀三郎も思春期の男子です。こんなきれいなお姉さんにそんなことを言われたら、さすがに舞い上がってしまいます。
 しかし次の瞬間、紀三郎にとってうれしくない事態が起こり始めました。あの忌々しい、自分を今の境遇に陥いれた元凶である眠気がやってきたのです。紀三郎はせめて彼女に挨拶の一つでもしようと、歯を食いしばって眠気をこらえようとします。しかしそれができたのなら、この小屋に身を置くことはなかったでしょう。彼の意識は次第に闇に沈んでいき、目の前の女子の姿はまぶたにかき消されていってしまいました。

 気づくと紀三郎は、小屋の中でうつ伏せに寝転んでいました。ハッと思って目線を上げても、そこには二つにたたまれた布団があるばかりで、あの目が覚めるように美しいお姉さんは影も形もなかったのです。


作品名:入眠逢瀬 作家名:六色塔