入眠逢瀬
1.眠気
じゃあ、お話をしていきましょうか。この話は前に大叔父さんが、僕にだけこっそり打ち明けてくれた話なんです。兄さんはもちろん、親族の誰もが恐らく聞いたことのない話だと思います。
大叔父さんは兄さんもご存知の通り、貧しい田舎の村の農家のせがれから、大学教授にまで上り詰めた立志伝中の人物です。もちろん必死に勉強したからそこまで上り詰めたんでしょうけど、元々幼い頃から頭が良かった方だったようです。学校では常に上位の成績だったそうですし、村の大人も舌を巻くほどの物知りだったと聞いています。一言でいえば、神童の誉れ高い少年だったんですね。
ならばさぞかし勉強漬けの少年時代を送ったんだろうな、と誰しもが思うでしょう。でも実はそうでもないらしいんです。大叔父さん、いやこの話には「大叔父さん」という呼び方はふさわしくありませんね。お世話になった故人にはいささか失礼ですが、この話では下の名前の「紀三郎」と呼ぶことにしましょう。紀三郎も一時期、いろいろあったらしいんです。このお話は、その「いろいろ」あったときの話なんです。
紀三郎が14歳のときのある春の日のことでした。彼はいつものように、学校の授業を熱心に聞いています。そんな、誰にとっても何の変哲のない日常の一コマのはずでしたが、異変はその授業中に突発的に起きたんです。
彼はその授業の最中、いきなり気が遠くなり机に突っ伏して眠ってしまったんです。猛烈な眠気に襲われてしまったんですね。
しかし、このときは授業をしていた教師が、「勉強のし過ぎで疲れていたんだろう」ということで見なかったことにしてくれました。ですので、このときは助かったんです。でもこの日以降、紀三郎は頻繁に勉強中などに眠気を覚えるようになり、気を失うようになってしまったんです。
兄さんは、過眠症という病気を知っていますか? 眠り過ぎる病と書いて過眠症。この病気は名前の通り、眠り過ぎて日中にも眠ってしまう病気です。ナルコレプシーなんかが比較的有名ですが、恐らく紀三郎もこの手の病にかかってしまったんじゃないかと思います。
突然眠ってしまうような状況になってしまった紀三郎。そんな彼の評判は、当然のごとく下がり始めます。何せ、これから大人物になるとばかり思っていた優秀な少年が、居眠りばかりするようになってしまったのですから。先に述べたように、最初のうちは不問に付す教師もいました。ですがあまりにも連日のように眠りこけるので、ついに教師陣も紀三郎を見放してしまい、操行の評価を下げる他なくなってしまったのです。
学校の成績が下がるとどうなるでしょう。当然、両親に知られるところとなります。もっとも両親は二人とも、息子の様子が最近おかしいことに気付いていました。この頃畑の手伝いなどをしている時分に、うつらうつらしたりぶっ倒れたりすることが頻発していたのです。そこで両親は紀三郎と話し合いの場を設け、最近の行状の説明を紀三郎に求めたのです。しかし、説明しろと言われても、紀三郎本人だって困ってしまいます。自分でも気をつけているのに、いつのまにか眠りこけてしまっているのです。誰よりも自分が一番理由を知りたいのに、両親二人に説明をしろなどと言われたって何にも言えません。
「自分でもよくわからない。だから、病院に行かせてほしい」
紀三郎は、両親にそう訴えるしかありませんでした。ですがそう言い募ってみても、この家に治療費を払えるようなお金はあるわけもないのです。それは紀三郎も十分よく分かっていたのです。
結局紀三郎は、自分の身に起こっていることを説明できませんでした。その結果両親は、この一人息子はもう勉強をしたくなくなったのだと結論づけます。将来楽をさせてくれそうなできの良い子だと思っていたのに、こんなにあっさりと裏切られるなんて。そんな落胆と怒りにまみれた両親は、紀三郎に厳しい仕打ちを課しました。二人は紀三郎に農具小屋の鍵を渡し、そこで生活をするよう強いたんです。
紀三郎は重い足取りで、母屋のすぐ近くにある農具小屋に向かいました。小屋の前に来ると、ところどころ木の板がはがれ落ち、ぷうんと悪臭が鼻孔に突き刺さります。かろうじて錠と言えるようなものをもらった鍵で開け、扉を開きました。その瞬間、ドタドタと何かが身を隠す物音がします。恐らくネズミか何かが巣食っているのでしょう。
紀三郎は心細い気持ちになりながら、母屋から持ってきた机と椅子を置き、傍らにこれまた母屋から持ってきた布団を二つ折りのまま置きました。
ネズミの糞やクモの巣まみれの床に腰を下ろし、紀三郎は大きくため息を吐きます。これから、一体どうすればいいのでしょうか。両親や教師の信頼を取り戻せばいい。言葉にすれば簡単ですが、信頼を取り戻すには不可解な睡眠をどうにかしなければいけません。ですがどうにかしようにもその方法がわからなければ、どうすることもできないのです。
しばらく落ち込んでいた紀三郎ですが、いつまでもこうしていても仕方ない、そんな考えに至りました。そうだ、ここで生活している内に何か解決法が見つかるかもしれないし、いつの間にか治る可能性だってあるんだ、そう前向きに考えた紀三郎は、手始めにこの小屋をもう少し快適にしようと思いました。すなわち、小屋の掃除をしようと思い立ったのです。
まず、一度農具を全部外に出します。さきほど屋内に入れた机と椅子、布団も外に出し、小屋を空にします。そうして、ネズミの糞やクモの巣、ほこりなどを母屋から持ってきたほうきで掃き清めていきます。こうして屋内の掃除をすませると、今度は表に出してあった農具の泥汚れを落としていきます。これだけの作業をするのは大変骨が折れましたが、このときはどうにか眠らずにやりおおす事ができました。
そして今度はきれいにした農具を、小屋に元通りに格納していきます。全て入れ終わると、最後に再び机と椅子、布団を持ち込みました。
「ああ、これで少しは居心地が良くなった」
紀三郎はホッとします。とはいうもののまだ嫌な臭いは消えていませんし、ほこりっぽさも相変わらずです。しかし紀三郎は当面、これで満足したのでした。
気がつくと、外は暗くなっていました。夢中で掃除をしていたからでしょう、今日は疲れているし早く寝ようと思った紀三郎は、布団を敷いて横になったのです。
横になって天井を見上げると、ぶら下がっている電灯が目に入ります。何気なく使っていたので、存在を失念していたのです。こんな農具小屋にも電気が通っていることをありがたく思った紀三郎は、この電灯も掃除しなくちゃと思いました。
壁に懐中電灯があったのを思い出し、布団の上に持ってきます。そして椅子を用いて電灯を天井から外し、ほこりやクモの巣を丁寧に取り除いてやりました。白く平べったい傘のようなシェードに独特の紋様が刻み込まれたその電灯は、かつて母屋にあったもので、かなり古ぼけてはいましたがまだしっかり使えるものでした。
電灯をきれいにした紀三郎は、再びそれを天井につけて明かりがつくのを確認してから懐中電灯をしまい、眠りについたのです。