入眠逢瀬
9.別離
自分の中に抱えていたわだかまりを解消した紀三郎は、再び灯さんに気兼ねなく逢うことができるようになりました。灯さんもその呼びかけに快く応じ、二人は今まで以上に仲良く逢瀬を重ねるようになったのです。
そんな二人の仲睦まじさは、もし見ている人がいたのなら、それはそれはうらやむほどだったでしょう。いつものように紀三郎は、条件を整えて机に向かいウトウトします。そして気がつくと背後の布団にちょこんと座っている灯さんの姿。紀三郎は彼女に駆け寄り、逢えなかったときの出来事をつぶさに報告します。それだけではありません。紀三郎は今まで以上にどんな些細なことでも、どんな重大なことでも灯さんに打ち明けるようになりました。そのぐらい灯さんのことを信頼しきっていたのです。事実、灯さんはにこやかな笑顔で彼の話を聞いてくれます。その安心感、安堵感は、到底言葉にできるものではありません。彼女を前に紀三郎はますます饒舌になり、いつまでも夢中になって話し続けるのです。
紀三郎のその饒舌は、床に入ってからも変わることはありませんでした。灯さんがキャミソール姿になる間ももどかしいほど、紀三郎は彼女を狂おしく求めます。ほこりっぽい布団の中で、二人は語り合い、触れ合い、ときに唇を重ね合わせました。そんな身も心もとろけるような甘いひとときを過ごしたのち、まどろむように紀三郎は眠りにつくのです。目が覚めた後、灯さんがいないことに気づく瞬間はさすがにちょっぴりさみしいのですが、それでもまた明日勉強を頑張って、また灯さんに逢えるんだという幸福感で眠りにつくことができるのです。
それだけではありません。もう一つ、紀三郎にとっていいことがありました。それは、この夏休み中に記録し続けていた睡眠のデータが蓄積し、いきなり襲ってくる睡眠についていろいろと分かってきたことです。まず寝る体勢を調査した結果分かったのは、枕が低いため、眠りが浅くなっているということでした。そこで、枕の下に物を入れてやや高くすることで、より熟睡できるようにしたのです。
さらに、短い睡眠時間で生活して寝不足の状態が続くと、突然眠りに落ちてしまう事態になる可能性が高いこともわかりました。ということは、あまり寝不足にならないよう数日ごとに休みを一日取って早く眠れば、日中の睡眠を妨げることが可能ではないかという推論が成り立つのです。紀三郎は試しに、寝不足の時に睡眠時間を補う生活を行ってみました。すると推論の通り、睡眠時間を確保する日を設けることで日中の眠気を押さえることができたのです。
これできっと学校の成績も再び向上するだろうし、両親や教師も今のように厳しく当たらなくなるでしょう、喜三郎はそう思い飛び上がって喜んだのです。
しかし、そんな紀三郎の幸せも長くは続きませんでした。その数日後に、耳をふさぎたくなるような報告を聞くことになるのです。
その日はいつもと全く変わらない夜でした。紀三郎は灯さんを待ちわびて、勉強机に向かっています。睡眠時間のコントロールも万全。案の定睡魔が紀三郎を襲い、つかの間の眠りについていました。そして目覚めるといつもの背後の気配を感じ、紀三郎は振り向きます。
しかしそこにいたのは、いつものあの微笑をたたえた灯さんではありませんでした。浮かない顔をして、こころなしかやつれて見えます。こないだ逢ったときは元気だったのに。紀三郎は灯さんの隣に腰掛け、どうしたのかと問いかけます。
「……」
灯さんは、しばらくの間言いよどんでいました。ですが、やがて小さな声で紀三郎に告げたのです。
「紀三郎さん、ごめんなさい。お会いできるのは、今夜で最後になりそうです」
この言葉を聞いて、紀三郎は心臓が止まるかと思いました。彼はこうやって、夜な夜な灯さんに逢える日々が、永遠に続くと思っていたのです。その逢瀬が急に、しかも今夜終わりを告げてしまうなんて……。
「な、なんで?」
思わず語気を荒げて、紀三郎は灯さんに問いかけます。こんな汚い場所にいたくないから? 僕と一緒にいてもつまらないから? それとも……。いろいろな想像が頭を駆け巡ります。
「……ちょっと、遠いところへ行くことになってしまったのです」
消え入りそうな声で、灯さんは答えます。
「なんで! 嫌だよ、行かないでよ!」
紀三郎は駄々っ子のように灯さんの両肩を掴んで、叫びます。でも、必死になればなるほど灯さんは顔を伏せ、より悲しい顔をしていくのです。
「紀三郎さん、私も悲しいです。でも、こればかりはどうしようも……」
うつむいた灯さんのほおを涙が一筋こぼれ落ちます。そんな彼女を見ていたたまれなくなり、紀三郎はギュッときつく抱きしめました。
「……紀三郎さんの方から抱きしめてくださったのは、初めてですね」
涙に濡れた顔を上げ、灯さんはニッコリ微笑むのです。
「本当にうれしい。私の一生の思い出です。紀三郎さん、ありがとうございます」
そう言って、灯さんも紀三郎を抱きしめ返します。
紀三郎は泣きながら彼女の胸に顔をうずめていましたが、やがて顔を上げ、灯さんの目を見て言い放ちました。
「僕、家を出る。家を出て、灯さんと一緒についていく!」
その言葉を聞き、灯さんは憂いを帯びた顔に、強いて笑顔を作りながら言いました。
「紀三郎さん、そんなことおっしゃらないでください」
「だって……」
先を言おうとする紀三郎の唇を、灯さんは自身の人差し指でふさいで言い聞かせます。
「紀三郎さん、あなたは私がいなくてもちゃんとやっていけます。だから、そんな事言わないでください」
「……」
紀三郎は激情のあまり彼女の人差し指を払いのけて、唇を重ね合わせます。甘い匂い、少しだけ開いた柔らかい唇の感触、その奥の官能的な舌……。もう彼女と逢えないなんて……。せめて最後に、灯さんのすべてを味わおうともがく紀三郎に、残酷な眠気が襲いかかってきます。でもここで眠ってしまったら、もう金輪際灯さんと逢えないのです。唇を離し、必死に眠気をこらえる紀三郎に、灯さんは目に涙を浮かべた精一杯の笑顔で言いました。
「紀三郎さん、あなたに会えて本当にうれしかった。何があっても、どうなっても、あなたのことは絶対に忘れません……」
その言葉を聞きながら、紀三郎の意識は少しづつ途切れてしまったのです。
気がつくと、紀三郎は布団の上に一人で突っ伏していました。先程まであれほど近くにいた灯さんは影も形もありません。先程の言葉が本当なら、もう彼女に逢うことはかなわないのです。それを思うととても悲しくなって、紀三郎は布団に突っ伏してむせび泣きます。
その時でした。いきなり突風が小屋の中に入り込んできたかと思うと、ものすごい勢いでとびすさっていきました。その拍子に天井から吊り下げられていた電灯━━小屋で生活をすることになった最初の日の夜に掃除をしたあの電灯、それが力尽きたかのように床にガラリと落ちたのです。紀三郎は何の気無しにその電灯を眺め、そしてあることに気づいて愕然とします。
床に落ちてすっかり壊れてしまったその電灯のシェード、そこに刻まれていたあの独特の紋様、それは灯さんが身に着けていたワンピースの模様と全く同じ柄だったのです。