エヴァンス
全身がぴくりとも動かない。どうなっているのかと聞こうとしたが、声を出すのも無理だった。
「お姉様、大丈夫です。彼は純粋な一般人。魔術装備も無ければ戦闘能力も皆無です」
「……わざわざそのまま持ってこなくても構わない。なぜいつものように搾ったものだけ持って来ないのだ」
連はパニックしていた。瞬きすらできないから目が痛い。肺も動かず呼吸すらできない。
(蓮様、それは、お姉様の縛り魔眼の効果です。お姉様は少々人間への警戒心が強いものでして。警戒が溶けるまで、しばらく苦痛に耐えてください)
ロザリオは蓮にだけ聞こえるような小さな声で耳打ちした。
ロザリオは再度、姉に説明した。
「いえ、いつものようにしようと致しましたのですが、不覚にも途中で目を覚まされてしまい、こちら側に転送されてしまいました……。一度失敗していますから私はもう搾精出来ませんし、返すためにはこちらの世界にて精を提供しなければならない決まりもありますし……」
「…………今は食欲が無いわ。下がりなさい」
「わかりました、お姉様。ですがその前にこの者への縛り魔法を……」
ロザリオは少し言いにくそうに、姉に言った。ほんの少し迷うような間の後、
「, ――Liberatio」
その言葉を聞いた瞬間、蓮は呼吸を取り戻し、殺されなかった事に安堵した。
○
その人型には手足が無かった。だから、座っているというより、椅子に『乗っている』という印象を受けた。
蓮が姉に献上されるのは、貢ぎ物の様な物かと思ったが違った。ロザリオが姉に自分を差し出すのは介護だ。蓮はそれに気付いてしまう。
『こんなになった私でも……、愛してくれる?』 蓮の頭の中に言葉が響く。
過去の映像が思い出される。白い骨、赤い……血。思わず込み上げてきた吐き気。背筋を冷たい汗が流れていく。
きゅるきゅると車輪が廻まわる音。静かな稼動音と共に、彼女はこちらに近付いてくる。
(酷い、夢だ)
いっそここで気絶してしまいたい。
(もう許してくれよ……)
「……さすがに、こんな露骨に嫌な反応をされるのは初めてだ。不快なものだな。…………それでも、憐あわれまれるよりは幾分かましか?」
両手足が殆ど根本からない
(もう許してくれ……もう許してくれ……)
「この、からだ……、怖いのか?」
エヴァンスが問いかけに、蓮は思わず逃げ出した。
廊下を走る蓮
後ろからエヴァンスが追いかけてくるような感覚。その圧に急かされ、顔から転んだ
「蓮様!」
ロザリオが少し不安そうな顔をしながら、小走りで駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
蓮はゆっくりと起き上がり床に手を付き、鼻血を拭った。
「これは夢だ……悪い、夢」
言い聞かせる蓮だった。
「事前にお姉様のことを教えておくべきでしたね」
「……これは夢なんだろ? 俺への呪いなんだろう? 夢なんだろ?」
「その質問に何と答えるかは非常に難しいことです。確かに、蓮様が元の世界に戻られたとき、ここでの出来事を、夢でも見ていたように感じるでしょう。
ただ、私たちが夢の世界の住人であるわけではありませんし、精神体のようなものでもありません。確かにここに実在しているのです」
「――実在?」
その言葉に、ほんの少し落ち着きを取り戻した蓮は、確認した。
「彼女は……幽霊とか、そう言ったものではないんだな」
その言葉に、ロザリオは少し悩むような仕草をして、
「確かに、魔族には、淫魔族と悪魔族の両方に渡って幽霊科という種は在ります。ですが、お姉様は私と同じくサキュバス科ですから――」
「そういうのじゃなく!
誰かの化けた姿という訳ではないんだな?」
ロザリオはその問いに少し面食らったような顔をすると、優しく微笑み、頷いた。
「私たちは、あなたたちと身体の構造は全く違います。もしかすると人の定義する『生き物』の範疇にすら無いのかも知れません。
ですが、私たちも、あなたと同じく実体を持った『普通の命』ですよ」
「そうか、……そう、か」
言って立ち上がる蓮。まだ胸は、ぐつぐつと熱い。
「――君のお姉さんには悪いことをしてしまった」
絞り出すように言う。
「いえ、私の方も過失がありました。お姉様のことを伝えておけば良かったかもしれませんね」
ロザリオは蓮の手を掴んだ瞬間に、何かを唱える。
「, ――Homo.Sanare.Magia.」
蓮の傷が消えた。先ほど顔面から怪我をして、鼻血を出していた蓮だったが、魔法にて治癒された。
傷の治りを確認してロザリオは言う。
「蓮様には申し訳ありませんが、お姉様のお腹が空くまでの間、この屋敷に滞在していただきます」
「拒否権は?」一応聞いてみる。
「もちろんありませんし、こちらに連れてくる魔術の代償として『私たち姉妹に精を捧げること』が条件になってしまいましたので、どの道、お姉様を満たすまでは帰ることが出来ません」
笑顔を宣告するロザリオだった…
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【サブタイトル】
宿泊について
蓮は一つの部屋に案内され、ロザリオから宿泊の説明を受けていた。
「ここは南館の三階になります。離れの塔以外でしたらどこに行っても構いません。庭園も綺麗ですから是非ご覧になってくださいね。
北館と南館には大浴場があります。魔術により二十四時間お湯を引き、清掃しておりますので、いつご利用になっても構いません。西館と東館には図書室があります。お暇でしたらそちらもどうぞ。
お食事は、南館二階の食堂にて朝は八時頃、昼は十二時頃、夜は六時頃にいらしてください。あとは……」
ロザリオから館内地図を受け取った。
「詳しくはこちらを、ご覧ください。魔界だからといって屋敷の中と庭園は特別危険なことはありませんからお気軽にどうぞ」
『屋敷の中と庭園は特別危険はない』という部分を強調したロザリオ。つまり、『屋敷の外に出たら危険たよ』という意味になる
説明が終るとロザリオは一礼し、「失礼します」と部屋から出て行った。
蓮は部屋のカーテンを開けた。
窓の外の絶景は、余りにも現実離れしていた。
そこに在ったのは、魔界観に有りがちな暗さがない。
曇天や瘴気の漂うイメージとかけ離れた。『まるで旅館』
しかも風情のある旅館。眼下には人間界でいう、城から外界を見るような、城下街を見るような景色。
街には巨大な空飛ぶ船が停泊し、重力を無視した建造物や、宙に浮く建造物がゆっくりと虚空を回転している。
山々は酷く鋭角的で高く、空には見たことの無い影が飛んでいる。
空を飛ぶ影は平気で人を連れ去ることもできそうな大きさだ。
それを見て、蓮は窓辺から離れ、逃げ出すのを諦めた。
〜翌朝〜
蓮はロザリオに聞いた
「ええと、昨日、俺が精を出さないと戻れないって言ってましたよね」
「ええ、そうですね」
「それは、ええと、自分でしたら帰れるんでしょうか?」
蓮がそう尋ねると、ロザリオは少し躊躇い
「いえ、それは出来ません」
「…」