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記憶

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 例えば感情が一つだとすれば、それを一とするなら、もう一つの感情は二となる。ここまではゲームの想定内のことなのだろうが、兄というもう一つの感情が生まれたことで、ゲームとしては未知の感情となる。そのため、本当であれば三の感情となるべきものが、四かも知れないし、さらにもっと大きなものになっているかも知れない。それだけ未知数の感情に歯止めが利かなくなってしまっていることをあすなは分かっていたのだろうか。
 もし、分かっていたのだとすればそれは、ゲームの主人公である克幸だったのではないだろうか。
 克幸は確かにメーカーが推奨している仕様とは少し違っていたが、それは、
「人間らしい感情」
 というものを持っているアプリの中の人間だったのだ。
 ひょっとすると、
「人間以上に人間臭いタイプ」
 だったのかも知れない。
 あすなは、そんな克幸を見ていると、
「おや?」
 と感じた。
 それまで自分と一緒に年齢を重ねているつもりでいた克幸が、次第に自分よりも年齢をさらに重ねて行っているように感じたのだ。
――どうしたのかしら? これが開発メーカーの言っていた「不具合」というものなのかしら?
 と感じるようになった。
 だが、克幸の態度はそれだけのものではなかった。
「あすなさん」
 克幸は文字で語り掛ける。
 あすなはマイクを使って、ゲームに語り掛けるが、その要旨は他の人から見ると、本当に画面の人間と普通に会話をしているかのように感じられるのだった。
「どうしたの? 克幸さん」
 あすなは、思わず、
「お兄ちゃん」
 と言いかけた自分にハッとして、口を拭ってしまった。
 克幸は何もかも分かっていると言わんばかりの様子で、あすなを見つめて微笑みかけたが、
「大丈夫。あすなの気持ちは分かっているよ」
 と言って、それ以上あすなに何も言わせないくらいの気持ちが感じられた。
「僕は、もうすぐこの機械から消えてしまうんだ」
「どういうこと? せっかく仲良くなれたのに、どうしてそういうことをいうの?」
「あすなさんは、僕をここまで育ててくれて、やっとあすなさんが理想とする男性になれたと思うんだ」
「ええ、そうよ」
「でも、それはあすなさんの理想の男性というよりも、お兄さんのイメージがあったからでしょう?」
「そんなことはないわ。私のお兄ちゃんは私が生まれる前に死んでいるのよ。だからお兄ちゃんの記憶なんかないのよ」
「そうなのかな? 僕にはあすなさんの中でお兄さんが生き続けているような気がするんだ。あすなさんは知らないだろうけど、僕はゲーム中に、あすなさんが意識を失っている時を知っている。その時に中からお兄さんが出てきて、僕に妹を頼むっていうんだよ。あすなさんは今まで躁鬱症を気にしていたかも知れないけど、それも成長するためにお兄ちゃんがわざと作っていたもので、もう心配ないから、きっと躁鬱症は治っていると思うよ」
 そういえば、躁鬱症で悩むことは減ってきたような気がしていた。
「それと、私たちのことのどういう関係があるというの?」
 とあすながいうと、
「このゲームは永久に続くわけではない。あくまでもゲームなんだ」
「それじゃまるで、『たかがゲーム』って言われているみたいじゃないの」
「そうだよ。でも、『されどゲーム』でもあるんだ。僕があすなさんに与えた影響はかなりのものがあると思うんだ。それをいい部分だけあすなさんに吸収してもらって、後は……」
「後は?」
「忘れていくしかないんだよ」
「忘れてしまうということ?」
「うん、僕はそのことをお兄さんとも話をした。お兄さんは最初、あすなが可哀そうだって言っていたけど、すぐに分かってくれたよ」
「ちょっと待って。だったら、何も言わずに記憶を消してほしかったわ。そんなことを聞いてしまうと私は……」
 あすなはむせてしまった。
「それはできないんだ。もしあすなに何も言わずに記憶を消してしまうと、あすなの中でお兄ちゃんは永遠に表に出てくることができなくなる」
「そんな……。悲しすぎる運命だわ」
 克幸はしばらく何も言えなかった。
 あすなは、涙に塗れている。しゃくれていると言ってもいいだろう。
「じゃあ、あなたが私の記憶を消すことで、お兄ちゃんは私の中で生き続けてくれるのね?」
「ああ、そういうことだよ。僕はあすなと出会えて本当によかったと思っている。そしてあすなのお兄ちゃんとお話ができたのも、本当によかった。お兄ちゃんが僕をその時だけだったけど、本当の人間にしてくれたんだ。本当の人間はそのままではお兄ちゃんのような存在とは会話ができないけど、僕のようなバーチャルな人間もそのままでは会話ができない。僕は人間になることで、お兄ちゃんと会話ができるんだ。そのおかげで、それまで分からなかった部分があったあすなの気持ちも分かることができた。そしてお兄ちゃんの気持ちもよく分かった。だから、もう思い残すことはない。あすなの記憶を消して、僕も消滅することで、あすなの中でお兄ちゃんと一緒に僕も生き続けることができるんだ。それはお兄ちゃんがそう言ってくれたからなんだけどね。ウソなのか本当なのかは分からないけど、それが最善だって僕も思ったんだ。あと少しだけど、僕はあすなと一緒にいることで、同じゲームの他の連中と違って、このまま生き続けることができる気がするんだ」
 と言いながら、克幸も涙を流していた。
「ゲームの不具合というのは?」
「あれは、僕がわざと起こしたものなんだ。そうしなければ、あすなやあすなのお兄さんに会うことはできなかった。他の連中やゲームのプレイヤーには迷惑を掛けたかも知れないけど、でも、最終的には問題がないようにしてあるから、僕は後悔はしていないんだよ」
 あすなは、ここまで言われると、克幸の気持ちを尊重するしかなかった。
 これからどうなるかハッキリとは分からないが、考えてみればまだ自分は中学生。これから他の男子をたくさん好きになって結婚し、子供が生まれて……。
 そんな人生を想像してみたが、あまりにも先の出来事のようで、どうせ妄想するなら、楽しく妄想するのが一番だと思うようになった。
 これも克幸のおかげである。
 克幸はあすなの記憶を消し去ると言った。あすなも記憶はすべて消え去るものだと思っていたが、二十歳になった今でもあすなの記憶は消えることはなかった。
 あすなは、大学生になり、彼氏もでき、大人のオンナになっていた。
「どこにでもいる普通の女子大生」
 それがあすなだった。
 あすなは彼氏とデートを楽しんでいるその時、人ごみの中で腕を組んだ歩いていたが、そのすぐ近くを一人のサラリーマンが通り過ぎた。一瞬「ハッ」として後ろを振り向いたが、そこにいるのは、中学生の男の子だった。
――どこかで会ったことがあるような――
 とは思ったが、それが誰なのか分からない。
 自分にとってかなり大きな影響を与えた人であることに違いないが、どうしても思い出せないのだ。
 訝しさがこみあげてきたが、
「どうしたんだい? あすな」
 と彼に声を掛けられると、その思いはすぐに消えていた。
「いいえ、何でもないの」
 というと彼氏は笑っている。
作品名:記憶 作家名:森本晃次