馨の結婚(第一部)(1~18)
その夜、僕は宿の布団の中で美鈴さんの隣に寝転び、こんな話をした。窓の外から風の音がしていて、小さな囁き声が温かい布団に隠されていた。
「もしかしたらさ、二人でゆっくりする時間が、これから先はほとんど取れないかもしれない。だから、余計に、ちゃんと祝ってあげたかった」
「うん、ありがとう」
美鈴さんは布団の中で、僕の腕を優しく撫でる。彼女からは、洗い髪を乾かしたばかりの温かそうなシャンプーの香りがした。
「それから…卒業して、会社に入社して、研修が済んだら…僕はしばらく日本を離れることになる」
これは実は前々から父さんに言い渡されていたことだけど、美鈴さんに言うのは初めてだった。美鈴さんは僕の言葉を聞いて、ちょっと布団の中でうつむいた。
「…そうなんだ」
返ってきた彼女の声は少しか細く、でもわかってくれるのか、震えてはいなかった。
「事業を学ぶには、それが必要なんだ」
「うん」
「でも、その期間は家族に聴かれる心配もないから、毎晩電話するよ」
僕はそれを言ってから、彼女の頭をゆっくり撫でて、少し自分の胸に引き寄せる。布団との衣擦れの音がやけに大きく聴こえて、それから、温まった彼女の柔らかい肌、頼りなく小さな肩を抱え、今はもうぎゅっと抱きしめることができた。
「二十歳、おめでとう」
そう言って美鈴さんの顔を覗き込むと、彼女は幸福そうに見えた。静かで優しいこの時間が長続きしないことが切なかったから、彼女の表情を推し量ろうとしたけど、美鈴さんの瞳は酔いしれたまま、ゆらゆらと揺らめいていた。
「ありがとう」
美鈴さんはそれから嬉しそうに笑って、布団の中から、クマのぬいぐるみをぴょこっと覗かせた。
「あっ…今、写真撮ってもいい?」
僕は、布団に包まれてテディベアを抱きしめる美鈴さんを、写しておきたかった。
「えっ、いいけど…ちょ、ちょっと待ってね」
そう言いながら美鈴さんは、女の子らしく、慌てて手櫛で髪を整え始める。それから、少しはだけていた浴衣の前を合わせて、僕がスマートフォンを取りに行っている間に、彼女は布団に肘をついて半分だけ起き上がっていた。
僕は美鈴さんの隣へと戻って二人でテディベアを抱えると、一緒に写真を撮った。それをすぐに見直して、「これもプリントしに行こうかな。僕が向こうに持って行きたいし」と僕がつぶやくと、美鈴さんは、静かに「うん」とだけ返事をして、テディベアに抱き着いたまま、そのうちに眠ってしまい、僕も隣で眠った。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎