馨の結婚(第一部)(1~18)
第十五話 隠された部屋
僕が「思い出のアルバムを作ろう」とメッセージを送って、美鈴さんはそれに賛成してくれたので、朝になったら一緒にカメラ店に行こうと決めた。幸い、翌日には父さんと出かけたりする予定はなかった。三日後には、「工場に行くからついてきなさい」と、父さんには言われていたけど。
翌朝僕が目を覚まして出かける服を選んでいると、部屋のドアから規則正しい三回のノック音が聴こえて、「失礼致します」と言って公原さんが入ってきた。
「おはようございます、公原さん」
「おはようございます。ご当主からの伝言を昨晩預かりましたので、お伝えに参りました」
僕はドキッとした。まさか当日になってから、一緒に出掛ける予定でも伝えられるのだろうかと思ったからだ。
でも、公原さんは黒のスーツの両襟を手で直しながら、「お出かけですか」と僕に聞いた。僕はその時、ちら、と負けん気のような気持ちが湧いた。
公原さんは、多分僕がお付き合いをしている女性が居るということに気づいているのだろう。そして、それが気に入らないらしい。今も、険しい表情で目を細めて、僕をじとっと見つめている。
「そうです。知り合いと出かけるので、その支度を」
そう僕が言ってみると、公原さんは、興味深げな、すべて承知しているような顔をして黙って頷いた。それに僕は思わず少し怒りが湧いて、公原さんを挑発してみたくなり、こう話を切り出した。
「公原さんは父さんを信用していると思うけど、僕が「黙っていて下さい」と言っても、聞いてくれるんでしょう?」
僕がそう言って微笑んだのを見て公原さんは少し驚いたようだったけど、さほど慌てる風もなく、腕に巻いた銀色の時計を一度引き寄せて見ていた。
「もちろんそうします。ですが若様、それが最善の道とは言い兼ねます」
涼しい顔でそう言ってのけた公原さんは、笑いはしないけど、この会話が嫌そうだというわけでもなかった。ならば僕は、公原さんとの会話から、父さんを説得する策を読み取れないかという、勇気が湧く。
「今喋ったら、父さんは僕たちを引き離すでしょう」
僕が、「恋人が居る」という話を持ち出して確認しなくても、公原さんは元のように眉一つ動かさなかった。
「それは若様のお言葉次第とも言えますし、もっと言わせて頂くならば、生活次第でもあります」
それは暗に僕の生活態度をたしなめる言葉だったけど、それより何より、僕が何をしても父さんの気に入るようにはならないということが、公原さんにはわからないのかと僕は少し憤りそうになった。
「…僕が何か言う権利なんかありませんよ、この家では」
僕がそう言った時、自分が、自分から動いて説得するのではなく、許してもらえないことに拗ねることしかしていないのではないかと、自分への疑問を抱いた。目の前の公原さんは、注意深く細めたままの目の光を僕に注いでいる。
しばらく公原さんは何かを考えていたが、もしかしたら、自分が僕の力になるべきかどうかを考えていたのかもしれない。ややあって、こう言った。
「ご当主を説得したくば、やるべきことがきちんと出来るのだと言えるようなお方におなりなさい」
厳しい目が僕に向けられ、そのプレッシャーに堪えようと僕は下を向かずに、公原さんをもはや睨むような目で見つめていた。
「会社で、成功しろということですか」
切羽詰まった空気を感じているのは僕だけのようだったけど、公原さんも真剣な眼差しで僕を見据えていた。
「それもありますが、言われるまで何も気づかないお方を、ご当主はお認めになりませんよ」
「わかりました…」
僕は不安と、不甲斐なさを抱え、少し弱気になりかけていた。そこへ公原さんは、さらに追い打ちを掛けた。
「若様は、今どうするべきでしょうか?」
そう言った時の公原さんは、本当なら微笑んでいたのかもしれない。でも、僕は急にそんなことを言われて焦ってしまったので、公原さんを注意して見つめていることはできなかった。
「…それは…」
僕がしどろもどろになっている様子を、公原さんは大げさにゆっくりと二度三度頷いて眺めている。僕がまだまだ子どもであるのだと言いたげだ。
「…ご当主のなさる事を、もう少しお勉強なさった方がよろしいでしょう。ご当主からのご伝言は、「三日後の工場視察は朝五時の起床になるから、前日は早寝をしておくように」とのことです。それでは失礼致します」
公原さんはさっと一礼して、すぐに僕の部屋を出て行った。僕はベッドの上に出していた着替えに目をやって、不安な気持ちを抱えていたけど、頭を振って着替えに取り掛かった。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎