馨の結婚(第一部)(1~18)
その晩のメニューは、グリルドチキンと、夏野菜のオーブン焼き、それからコンソメスープと、サンドイッチだった。スープをメイドの楠さんが運んできた時、父さんが口を開く。
「課題は済みそうか?」
「は、はい、あと少しで…」
「情けないな、父さんは学生時代には七月中には終わらせていたぞ。まあいい。お前に話がある」
「はい…」
スープを啜りながら、僕たちは会話をしていた。母さんも居たけど、母さんは何も言わずに目を伏せてスープをスプーンですくい、音もなく唇から流し込んでいた。
食事室はとても静かで、わずかにスプーンとスープ皿の擦れ合う音だけが、時たまカチッと鳴る。
「お前も大学には慣れてきただろうから、そろそろ会社の方に目を向けて欲しい。だから、明日までに課題を済ませて、明日は私に付き合いなさい」
「えっ?」
僕は驚いて、拍子抜けして、それからとても焦った。
もちろん、美鈴さんとのことを父さんが本当に知らなかったのは有難かったけど、僕の課題はあと三分の一くらいは残っている。それを今晩中に終わらせるのはかなり骨が折れるし、ろくに眠ることもできないだろう。ましてや、明日父さんについて会社に出て行くのも、今聞いたばかりで驚いていた。
父さんは僕が小さいときにどこかへ連れて行くと、我が家の事業に関することについての、実際の質問をしたりして、僕に会社の事業内容をほのめかしたり、また、経済観念を植え付けようとしたけど、いよいよ本格的に内部でそれをやるらしい。
「なんだ、まだかなりあるのか?本当に…もう八月も半ば近いんだから、終わっていても当たり前なんだぞ!」
父さんはすぐにヤカンが沸くように怒りだす人だ。僕は慣れてはいるけど、体が震えてしまうのを隠していた。それを分かってくれたのか、母さんが少しテーブルの上に身を乗り出す。
「あなた、この子は知らなかったんですから、あなたの都合に合わせるのは難しいわよ。確かに明日は大きな会議が入っていますけど、明後日の定例会議の方が、ちょうどいいんじゃなくて?明日は外部の人もいらっしゃるんでしょ」
「む、そうか…」
父さんはなんとか納得したらしいが、やっぱり僕は、あと一日で課題を終えなければいけなくなった。
明後日は美鈴さんと図書館で課題をやるつもりだったのに…。
僕はその晩、美鈴さんに、父から言い渡されたことをメッセージで長々と書き送った。どうやらこれからは家の仕事にも時間を取られること、明後日の図書館での予定には行けなくなったこと、それから、もしかしたら大学の放課後にも、そういうことがあるかもしれないこと…。
美鈴さんからの返事はこうだった。
“そうなんだ…明後日のことは残念だけど、これから大変になるね。お仕事覚えるの、頑張って!応援する!”
そこには、星マークとハートマークが散らされていて、美鈴さんは絵のスタンプも送ってきた。それは、可愛らしいカエルが「がんばれ!」と、鉢巻をしているスタンプだった。
“カエルかわいい”
“これかわいいでしょ”
それから僕は、どうしても言いたいことがあって、五分ほど迷ってから、「ええい!」と、送信ボタンを押した。
“美鈴さんはもっとかわいいけどね”
“…ありがとう”
“とにかく、これから社内に出入りすることになるなら、僕は家の事業の勉強もしなくちゃならない。応援ありがとう。頑張るよ。美鈴さんも勉強頑張って!”
僕はスタンプは持ってなかったけど、元々メッセージ用に用意された犬のスタンプを送った。「ありがとう」の台詞入りだ。
“任せなさい!”
“じゃあ、今晩はおやすみ”
“うん、おやすみなさい”
スマホを充電器に繋いで、僕は課題の消化に戻った。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎