馨の結婚(第一部)(1~18)
第十一話 ときめきの洪水
僕は初めてのデートから帰り、そして翌日に美鈴さんに会ってからも、有頂天にいるような気分で、毎日楽しい学校生活を送っていた。
朝学校に行くと、学生ホールで早くから待っていた彼女が手を振って僕を迎えてくれるし、週に何日かは一緒に図書館で待ち合わせて、寝る前には彼女と「おやすみなさい」とメッセージを送り合った。
もちろん学校の勉強も、「美鈴さんに追いついてみせる」と息を巻いて、僕は来週末に行われる単位認定試験を目指して、夜遅くまで必死でノートにペンを走らせ、参考書を読み漁っていた。
デートをした土曜日から五日空けて、僕はその日も美鈴さんと図書館で待ち合わせて、お互いに期末の試験に向けて黙々と科目の復習をこなしていた。
僕は経営学科のレポートをいくつかテーブルに広げていて、美鈴さんは哲学の教科書の印のついた部分を、一枚一枚ページをめくって確かめては、何か書きつけていた。
その時に、ふと僕は美鈴さんの視線がこちらを向いているような気がして、目を上げた。いつものように笑ってくれるだろうと思った彼女は、なぜか少し不満げな、落ち込んだような目をして、僕から目を逸らした。
その時は「あれっ?どうしたんだろう」と思っていたけど、目の前にあるレポートに目を戻すと、僕はまた勉強を始めてしまい、「彼女も勉強に集中していたから、ちょっと気がなさそうに見えただけかな?」と、思い過してしまった。
図書館で終えたかった復習が済んで僕達が廊下を歩いている時、美鈴さんはあまり喋らなかった。僕も、明日は試験範囲の最後に入る科目の講義が多くて、そのことに気を取られていたように思う。
僕たちは校門を過ぎて、二人で地下鉄の駅に向かっていた。日が暮れた闇に、車のライトや飲食店の看板の灯りがチカチカと映って、昼間よりもむしろ灯りを感じながら、そのチープな光に埋もれた街の中、狭い歩道で僕たちは遠慮がちに身を寄せて歩いた。
僕はその時数学のことを考えていたけど、急に右手を美鈴さんにぐいと引かれて、僕達は立ち止まった。僕が振り返って彼女を見ると、彼女は何か言いたげにうつむき、僕を見なかった。彼女の頬と目は、近くにあるコンビニの店内から漏れてくる灯りに照らされている。
「どうしました?」
彼女はそっぽを向いていて、初めて見る顔をしていた。唇を尖らせて、僕を見ない目の瞼は伏せられている。長い睫毛の束が、彼女の瞳を隠してしまっていた。何かを不満に思って拗ねているような顔だったけど、僕は思い当たる理由がなくて、早く彼女から聞き出したかった。
「なんでそんな顔してるんですか?美鈴さん」
僕がそう言うと、美鈴さんは顔を上げたけど、それも初めて見る顔だった。悲しそうに下げられた眉と、潤んだ大きな目、それから何かを言うまいとしているのか、必死に一文字に結ばれた唇。
「美鈴さん…?」
彼女が悲しんでいることに僕は気づいたけど、美鈴さんはまた下を向いた。
「なんでもないです…」
なんでもないわけがない、切なそうな顔のままなのに、彼女はまた歩こうとした。僕は急いで彼女の手を引き、引き留める。すると、美鈴さんははっとして、僕を見た。
「なんでもなくないじゃないですか。あの…何かあったなら言ってください…僕、わからないけど、美鈴さんを悲しませているような気がして…」
僕達の横を、何人もの人が通り過ぎて、歩道の外をトラックやタクシーが忙しく過ぎていく。知らない誰かの楽しそうなお喋りの声や、どこかに向かって急いでいるエンジンの音は、どこか遠くに聴こえる。わざとらしい夜の灯りの中、僕達はそこに二人で立っていた。
美鈴さんは言いにくそうにして口を何度も開きかけ、そして少し赤くなっていた。言ってはいけないことを言わされようとしているように、困った顔をする美鈴さんの手のひらを僕はぎゅっと握って、その先を急かす。
「今度…私の家に、来ませんか…?」
そう言って彼女は顔を上げ、請い願うように僕を見つめた。僕の後ろを、大きなトラックが飛びすさっていった。
「えっ…家に、ですか…?」
僕は正直に言って、焦った。
まだ付き合い始めたばかりなのに、そんなことをしていていいのだろうか。いや、もちろん、美鈴さんがそう望むならそうしたいし、僕だって美鈴さんが暮らす家で、二人きりの時間を過ごしたい。
そう思ったけど、急に言われたものだから、僕は慌ててしまっていた。
「嫌、ですか…?」
不安そうに僕を見上げている彼女に、僕はなんとか、「行きたいです…是非」と、素直に答えてしまい、彼女はにっこり微笑んで「じゃあ、試験のあとで」と言い、そこから先は機嫌が良さそうに歩いていた。
僕はなんとなく、「二人きりになったら、家のことを切り出そう」と思い、それから美鈴さんの家の景色を想像していた。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎