馨の結婚(第一部)(1~18)
「『ニコマコス倫理学』!?か、馨さん、急にそれは難しいと思いますよ!」
珍しく彼女は慌てて、僕の持ってきた本と僕を何度も見比べて、大げさなほどに不安そうな顔をする。それから彼女は、「急に哲学者の自著に入っていくのはちょっと難しすぎるので、解説書から入った方がいいと思いますよ」と言った。僕はそれを疑るわけじゃなかったけど、ちょっと彼女が僕を侮っているように感じたところもあったし、表紙を開き、目次も読まずに無理やりにでも読んでみようとした。
二十分後の僕はテーブルに突っ伏して、閉じた『ニコマコス倫理学』を自分から遠ざけて、美鈴さんに慰められていた。
「なんですかあれ~…あんなに難しい日本語読んだことないですよ…もともとはギリシャ語だし…」
「う~ん、厳密に自分の主張を初めから終わりまで展開していくんですけど…みんな宇宙人なのってくらい頭がいいので…確かにアリストテレスは選択肢は広いんですけど、そのすべてにおいて当時の英知が全部まとまってるみたいな人で…」
「聞いてないですよォそんな話…美鈴さん、こんなもの普段から読んでるんですか…?」
そう言って顔を上げると、彼女はちょっと首を傾けていたけど、しばらくしてちょっと遠慮がちに微笑み、「はい」と言った。僕はそれに強い敗北感を覚えたし、さらに不甲斐なさも感じた。だから「そうですか…」とうつむいて答えることしかできなかったけど、美鈴さんはなんのフォローもせず、「ところで」と切り出す。
「私が選んできた本、見てくれませんか?」
彼女がテーブルの上を滑らせて寄越したB5くらいの分厚い白い本に、ちょっと拗ねた気持ちで目をやると、逆さまにはなっていたけど、「分かりやすい数学文章題の取り組み方」というタイトルが見えた。
「馨さんは文章題が苦手なだけだから、そこの苦手が改善されれば、きっとグッと良くなるはずですよ」
そう言って楽しそうに彼女はにかっと笑う。僕はさっき「絶対に歯が立たなそうな学問」を見つけてしまい、しかも美鈴さんはそれが得意だなんて差まで見せつけられて、この上でいつも苦々しい思いをさせられている文章題になんて取り組むのは気が進まないなと思い、ちょっとぷいっと横を向いた。
「…嫌いでしょ。数学」
「へっ?」
美鈴さんのちょっとなぞなぞを出すような声が低く、小さく響く。
「嫌いだとね?数学も「馨さんなんか嫌いだよ~」って、そうやって横向いちゃうんですよ」
そう言って優しく微笑み、彼女は僕の頭にそっと手を当てる。
「だいじょーぶ。きっとうまくできるようになります」
彼女のその、幼子に言い聞かせるような語調に、僕は昔家に居た、メイドの「木森さん」を思い出したけど、そんなふうに思い切り彼女に甘えようとしている自分が恥ずかしくて、腕の中に顔を埋めた。
「そうだと…いいんですけど…」
「馨さんなら、大丈夫です」
静かな図書館にある本棚の森では、僕たち以外が誰も居ない野原があるようで、そこに温かい真昼の光が差しているように、僕はぽかぽかと体が温まるのを感じる。そして、一頻りそれを味わうと、背骨を真っすぐに直した。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎