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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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馨の結婚(第一部)(1~18)

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第十話 めくるめいて








図書館に行く間も、僕たちは「これはデートなんだ」と思うと、意識し過ぎて興奮して、会話も少なかった。

でも、駅で狭いホームを歩いている時、そっと美鈴さんは僕の後ろに隠れ、僕の右手を後ろに引いてきゅっと握った。僕もやっと少し握りしめられた気がするけど、「人前で寄り添い合う」ということが、いかに彼女を独占している印になるか、それからこんなに恥ずかしいものなのかと、体中沸騰してしまいそうだった。

「この人が、僕を好きと言ってくれました」と、この場に居るみんなに宣言しているようなもので、まるであちこちから、噂をする声が聴こえてくるような気になる。


「電車、遅いですね…」

乗り場の線の中に収まった時に彼女にそう言うと、彼女は僕の手を手首ごとちょっと引いただけで、何も言わなかった。右後ろに居る彼女を振り返ると、彼女は恥ずかしそうにうつむくだけだったけど、ちょっととんがらせた唇は、「ずっとこのままでもいい」と言いたがっているように見えた。

僕も切ない気持ちで前を向き、滑り込んできた列車に彼女を乗せる時、彼女の手を、危なくないようにだけど、ちょっと強く引っ張ってみた。彼女は少し驚いて僕を見たけど、城に閉じ込められたお姫様が助け出される時のような、切なげで、僕に縋るような表情を見た。

電車に乗ってからは手を解いたけど、僕たちはドア付近に向かい合って立って、無言でうつむいていた。





図書館に着いた時には、もう午後の一時半だった。僕たちは初めて行く場所なので、図書カウンターで利用登録をしてカードを受け取り、本を目指して進んで行く。

実を言うと僕は、静かにしていなければいけない場所の方が有難いような気がした。僕は口下手だから美鈴さんをお喋りで喜ばせられるかに自信はないし、もし気を抜いて彼女に失礼なことなんか言ってしまったらどうしよう、という不安もあった。


でも、本当はそんな遠慮なんかしないで、僕が彼女の望むような伝え方で、雨あられのように愛を降らせたい。彼女の綺麗な髪にいつも絡みついて、僕を忘れないように。



「馨さん。私、探したい本があるので、どこかの席で待ち合わせして、二人で読むことにしませんか?」

不意に彼女がそう言って僕を見上げたので、思わず心中に渦巻く沼に没しそうになっていた僕は、ろくな返事もできなかったように思うけど、彼女と僕はそれぞれ自分の目的とする本を探しに、二手に分かれた。


僕は、彼女の学ぶ哲学を、自分でも他の勉強の合間に学んでみようと思っていたので、西洋哲学の棚でアリストテレスの著書を探した。アリストテレスはギリシャの哲学者だ。「哲学への道」の講義で哲学者はいろいろと紹介されていて、哲学の興りはもちろんギリシャ。今の哲学とはまったく違うものだけど、僕はそこから始めたかった。

プラトンやソクラテスでもよかったけど、なんとなく、たくさんの範囲を理論づけていったというアリストテレスであれば、とっつきやすいところもあるのではと思ったのだ。

やっぱりアリストテレスの著作はたくさんあって、僕はその中から、『ニコマコス倫理学』という本を選んだ。「倫理」は高校でもやったし、そこに近いのかなと思った。そのままその場でちょっと読みたい気持ちもあったが、「美鈴さんがもう席に戻っているかもしれない」と思って、場所を覚えておくのに「F」という棚の標識を確認してから、元来た通路を通って、本棚の群れの中にぽっかり空いた、閲覧スペースに戻った。


美鈴さんはもう席に就いていて、白いカバーに赤い帯の付いた本を開き過ぎないように丁寧に広げ、何事かを確かめるように、指でなぞりながら微かに口元を動かしていた。それはやはり恐るべき集中力で、彼女の指は驚くほど速く何かを辿り、そして、みるみる彼女の表情は晴れていく。「これでよし」と言うように彼女は頷いて、顔を上げると僕を見つけ、顔の横で小さく手を振って、「おかえりなさい」と言った。

僕はその言葉にびっくりして、不明瞭な「ただいま」を言いながら、疲れなど吹き飛んでしまう彼女の目と、安心した様子で本に向き直る微笑みを、瞬きの度に瞼の裏側で、何度も映し直そうとするのだった。