馨の結婚(第一部)(1~18)
僕たちは、一コマ目の講義の前に学生ホールで待ち合わせて、少し話をしてからそれぞれ違う講義に向かうことにしていた。僕の一限目は数学、美鈴さんは哲学の専門科目だった。
僕はまだ人もまばらな学生ホールで、真ん中に観葉植物の植えられた円形のソファに座って、彼女を待っていた。
彼女を待つ間、僕は時間潰しに数学の教科書を読もうとしていた。しかし、それは僕にとってその時はただの無用な情報の羅列に過ぎず、僕は正面玄関へと続くホールの入口にばかり気を取られていた。それは僕が数学が苦手なだけではなく、彼女を待っているからという理由の方が大きかった。
硬い絨毯の上に誰かの靴底が擦れる音が鈍く響いてくるたびに僕は顔を上げ、彼女ではないとわかると、また目を伏せて数式を追おうとなんとか苦心していた。
それでも僕は、少しずつ教科書に真剣に向き合うようになっていき、ホールで誰かが喋り合っていたりする雑音などが遠くなっていった。僕の興味は一つの複雑な数式に向かっていき、その美しさにのめり込んでいく。
数学については、いつも僕は、「本当にすごい人たちがこんなものを考えたんだなあ」と感嘆していた。
自分のような凡人には到底辿りつけもしないほどに、数学者たちは常に勉強と研究に明け暮れ、しかもそれを彼らは楽しんで、また、自分の使命とも捉えて日々を過ごしていたに違いない。
僕たちはその下でpやqについて悪戦苦闘したりするだけだけど、彼らは最前線で、発明のために新しい問題発見と解決に闘って、また新たな数式を創り出している。僕は、そんな学問の端っこに触れられることが嬉しいと思った。
「でも、やっぱりちょっと難しいな…」
僕がそう独り言を言った時、頭の上から嬉しそうにくくっと笑い声が聴こえて、「数学ですか?」と、美鈴さんの声が降ってきた。
慌てて顔を上げると彼女はいつの間にか僕の座るソファの前に立っていて、僕を驚かせたことを満足そうに笑っていた。
「美鈴さん、おはようございます」
「おはようございます」
僕は彼女を見て、昨日彼女とお付き合いを始めたこと、それから一晩中彼女のことを考えていたことを思い出して、急に頬が熱くなった。それから不思議なことに、今朝まであんなに恋情を思い詰めていたのに、彼女を前にすると、新鮮なときめきだけしか心に湧かなかった。
彼女はいつか僕と二人で出かけた時のように髪の毛を編み込んでいたけど、あの時とは違って今度はカチューシャのような形に片側で留められていて、髪留めにはサクランボの形の細工が付いていた。
彼女の服装は膝丈までのモスグリーンのワンピースだけで、何本も細い紐で足を覆うようなサンダルを履いて、鞄はいつものシックでシンプルな黒いトートバッグだった。
僕は彼女の素足に目がいってしまいそうになるのを堪えて、ちょっと顔を逸らす。
彼女は僕の隣に座ってバッグを膝に抱えた。本当にすぐ隣で、肩が触れ合うんじゃないかというくらいだった。それで彼女の髪からシャンプーか何かの綺麗な花の香りがして、僕は胸をドキドキさせてうろたえるばかりだった。
ちらと彼女の方を見ると、彼女も僕を見て何か言いたげな顔をしていた。
「この間と…髪型が、違いますね…」
僕が切れ切れながらも思い切ってそう言うと、彼女は編み込んだ髪に手を当てて、「変ですか?」と言った。
「いいえ!全然変じゃないです!あの…可愛い、です…」
最後はまた語尾が尻すぼみになってしまったけど、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せて、頬を染めた。僕は緩やかに波打っている彼女の髪に触れてみたかったけど、ここは人目があるし、それにそんなに急なことをしたら彼女に嫌われてしまいそうで、見つめているだけだった。
「…実はこれ、昨日調べたんです。私、編み込みって一種類しか知らなくて、ちょっと頑張っちゃいました」
そう言って、褒めてほしそうな小さな子のように彼女がえへへと笑う。
ああ、可愛いなあ。胸が切なくなる。ぎゅっと抱きしめてしまいたいくらいだ。それができないのが歯がゆい。
「そうなんですね、すごく、お似合いです」
僕は、今彼女を抱きしめられないなら、せめて彼女が「頑張った」のは誰のためなのかどうしても聞きたかったのに、聞けなかった。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎