馨の結婚(第一部)(1~18)
彼女は僕が送ったメッセージに、翌朝になってから返信をくれた。
『そうなんですね、わかりました。また上田さんのお時間が空きましたら、メッセージをください。あまり無理しないでくださいね。』
そういった文章の後で、「がんばれ」と応援をしている絵文字が添えられていた。
返信はしなかった。本当のことを言ってしまわないように。そのまま僕はメッセージ画面を閉じて、それまでしていた勉強に戻った。
僕の毎日はだんだんと退屈になり、青葉に雫を乗せた紫陽花も、窓をはしゃぎながら流れ落ちる雨粒も、水たまりに映る空でさえ、その唯一の色を失い、彼女の面影だけが残った。
僕はその頃、買ってきたパンなどを学内の見つからないところで食べて、昼食を済ませていた。
でも、その日は久しぶりにすごくおなかがすいて、カレーライスが食べたくなった。仕方なく、彼女とあまり会わないだろう時間帯に、学食に向かう。
彼女はいつも休憩の時間になるとすぐに食堂に来るので、もうこの時間なら、食べ終わって席を立つくらいだろうと思った。
そこで僕は、大変なものを見ることになる。
うちの学食は、半面がすべてガラス張りになっていて、全体が広く、天井も高い。雨雲の影が溶けた鈍色の光に満ちていた。テーブルや椅子の影も弱い灰色で、どこか陰鬱な空気が漂っている。それから、梅雨の湿気と人いきれで、僕は肌が汗ばむのを感じた。
それでも学生達はお喋りをやめることはなく、食堂は賑やかだ。カウンターの奥からも、おたまやフライパンのカンカンと当たる音や、食器の擦れる音、水の流れる音がしている。
わけもなく懐かしさが湧いて、僕は人心がついた。そして、少し元気が出てきた。
なんとなく、そのへんに座っている生徒にでも、「ひどい天気だよねえ」と話しかけて、「そうだねえ」と返ってくるのを想像する。
もちろんそんなことはしなくても、それでやっと、「ああ、雨だけど、頑張らないとな」と、思えるのだ。
食堂にいる間はずっと俯いているつもりだったのに、カウンターに進む時に僕は顔を上げて、辺りを目だけで見渡してしまった。
手前にいる生徒に、奥にいる生徒の姿が重なり、そうやって群れになった人々の真ん中で、僕の目が止まる。食堂を横切る通路に面したテーブルの端に、彼女はいた。
僕の心臓はそれを見て、痛みと喜びに起き上がる。まるでこの痛みなしには生きられないように、僕の心臓は強く脈打った。
彼女はいつも通りに、長い髪をシンプルなポニーテールにして、黒のスーツを着ていた。僕は、彼女があの日に髪を編み込んでいたのが、「花冠のようだ」と思ったことを、思い出す。
予想通りに、すぐに食べ終わって口の回りを拭う彼女が遠くに見えた。ちょうどその時、彼女のテーブルのそばを一人の女子生徒が通る。
僕は、彼女が立ち上がってこちらを向くかもしれないと思って、目を逸らしかけたけど。
その時、それは起こった。
彼女のそばを通った女子生徒は、彼女の座ったテーブルの前で一瞬だけ立ち止まり、自分のトレーに乗せられていたカレーライスの銀色の皿を片手で取り上げた。
そしてその生徒は皿を返して、彼女のテーブルに置かれたトレーの上に、カレーライスをぶちまけたのだ。
作品名:馨の結婚(第一部)(1~18) 作家名:桐生甘太郎