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 そこに在ったのは、ステレオタイプな魔界観に有りがちな、曇天や瘴気の漂う禍々しいものではない。
 色合いは一見すると人間界と同じような景色だった。しかし、眼下に在る街には、巨大な空飛ぶ船が停泊し、重力を無視した建造物や、宙に浮く建造物がゆっくりと虚空を回転している。その様子は、太陽系のようで、一つの大きな空中の建造物を中心にし、自転と公転をしている。山々は酷く鋭角的で高く、空には見たことの無い影が飛んでいる。
 特に空を飛ぶ影は平気で人を連れ去ることも可能そうな大きさだ。
 それを見て、寺井はそっと窓辺から離れ、逃げ出すのを諦めた。
「……人間、何事も諦めが肝心だよな」
 寺井はそう言い訳がましく言って、ベッドに寝転んだ。
 そうして、寺井はしばらくの間、この屋敷に滞在することになった


------------------------- 第6部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
六、図書館 -Bibliotheca-

【本文】

 翌日、朝食を食べに食堂に降りてきた寺井
 疑問していることを聞いてみた。
「ええと、昨日、俺が精を出さないと戻れないって言ってましたよね」
「ええ、そうですね」
「それは、ええと、自分でしたら帰れるんでしょうか?」
 寺井がそう尋ねると、ロザリオは少し躊躇いがちに、首を振り、
「いえ、それは出来ません」
 と言った。そして更に続ける。
「寺井様はまだ気付いておられないかも知れませんが、この館には性の機能や性欲を抑制するような魔術式が組んであります。私たち姉妹の許可無く射精することは出来ません」
 ロザリオはそう言って、それから少し声を潜めるようにして続ける。
「もちろん、……その、ご自分の手で……上下して、慰める事は出来ますが、決して最後まで到達することが出来ませんから、悶え苦しんで気が狂ふれてしまうと思います。お勧めはしません」
 自慰という言葉は彼女たちにはやや恥ずかしい言葉のようだった。その、少し恥ずかしがっているような言い方に、寺井は思わず少しときめいた。
「も、もし、どうしても我慢が出来なくなって、ご自分でなさりたくなってしまったら、言ってくだされば、少しくらいは何とか出来るかと思います」
 ロザリオは恥ずかしそうにそう言った。彼女の恥ずかしがるポイントは寺井にはよく分からなかった。
「ところで、どうしてそんな性欲を抑制する術なんて敷いてあるんですか?」
 寺井はせっかくなのでそれも聞いてみた。
「サキュバス……ひいては淫魔族に言えることなのですが、抑制する魔術がないと、お、お、……」
 ロザリオは顔を赤くして、目を逸そらし、ふうと一呼吸おくと、
「オ、……ナニー……をし続けてしまう……のです」
 と言った。やはり彼女にとって『自慰行為』を示す言葉は、処女に局部の名前を言わせるほどに恥ずかしいことのようだった。
 ロザリオの口から出たその意外な言葉に寺井はきょとんとする。
「それは一体どういう……」
「淫魔族というのは、元来……性的快楽を求める魔性なのです。それは私たちの成り立ちを考えれば極々当然のことではあるのですが、そのまま、始終……そういうことに耽ふけっていては文化的な生活は望めません。そのために、必要なときだけ性欲を持てるように、魔術で制御する様になったのです」
「いや、興味深かったよ。ありがとうございます」
 寺井がそう言うと、ロザリオは、説明がよほど恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にして、口元を隠すようにハンカチを当てた。寺井は、それからしばらく、この館や魔界の話について聞き、手渡された服を着て部屋に戻った。
 その服からは、仄ほのかに心を落ち着かせるような優しい香りがした。思わず二度寝の誘惑が鎌首かまくびをもたげ、ベッドに寝転ぶ。
 ロザリオの話では、こちらでのことは、人間界では一日の夢として認識されるとのことだった。どうも、魔界と人間界は時間の流れがズレているというか歪んでいるらしかった。
 ただ、完全にズレているというわけでもなく、ほぼ同時に進んでいるが、魔界に来た人間が現世に戻る際は元居た時間軸に戻るのだそうだ。
 その話を聞いて、寺井は胡蝶こちょうの夢の話を思い出した。
 この屋敷にはテレビもゲームもパソコンも無い。寺井はほんの少しごろごろと寝転がって、部屋で寝て過ごすのはあまりにも不健全だなと思い直し、図書館に足を運んでみた。
 ロザリオに渡された館内案内には西館三階の端と東館三階の端に入り口があるようだったので、寺井は深く考えず西館に向かった。
 そこは、西洋の巨大図書館のような内装だった。寺井は一歩足を踏み入れたとたんに、思わず息をのんだ。
 壁一面が本で覆い尽くされ、天井は高く、シンプルなシャンデリアと間接照明で柔らかく照らされている。魔術で空間が広がっているのか、それとも単純にそのように見える構造なのか、寺井は、この図書館の絢爛けんらん豪華ごうかな威圧感に圧倒された。
 書架しょかはジャンルごとに分けられており、そこから更に言語ごとに分かれている。
 しかし、書架に填はめ込まれた銅板のプレートは全て古いラテン語で書かれており、寺井には読めなかった。それどころか、そもそも何語で書かれているのかも分からなかった。
(来てみたはいいがこれじゃあダメだな)
 寺井がそう思って踵を返そうとしたとき、丁度、正午の鐘がなった。
「寺井様、お食事の用意が出来ました」
 後ろから呼び止められ、寺井は思わず驚く。
「屋敷の中には、客人を見張っておくことが出来る魔術が仕掛けられていますので、用のある人物がどこにいるのか位は分かります」
 ロザリオは寺井が何か尋ねるより先にそう言った。
「……そうですか」
 結局のところ、逃げ出すことははじめから無理だったようだ。
「それでは、食堂の方に参りましょう」
「あ、ロザリオさん、この図書館なんですけど……、日本語の本はどこに在るんでしょう?」
 寺井は少し困ったようにそう言った。
「――そうでしたね」
 ロザリオは言語のことを失念していたらしく、申し訳なさそうに笑って、
「並び替えておきます」
図書館の入り口に在るカウンターの中に入ってなにやらぶつぶつと呪文を唱えた。すると、

 ――ガチャン!

 と、大きな作動音がして、本棚が一斉に回転扉のように回転した。一回転しただけだといいうのに、そこに在った本は全て入れ替わっている。
「西入口付近に図書館だけでなく、この屋敷全体から和書わしょを集めておきました。お食事が終わったら読まれると良いかと思います」
 しかし、あまりにも簡素な背表紙に、寺井は嫌な予感がして、その一つを手に取ってみた。
 そこに在る日本語の本は全て江戸以前のもののようだった。文化的価値は素晴らしいのだろうが、寺井には、全く読めず、墨で溺れたミミズがのたうち回った跡にしか見えなかった。
「ええと、書かれた時代が違うようで……俺には読めないようです」
 ロザリオは少し考えるような仕草をして、
「でしたら、映像資料用の魔導書グリモワールなどはどうでしょうか?」
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中