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 視線が床の上を走る。寺井の目に、まず、乳母車の足のような、小さな車輪が映った。そして、その少し上に機械的な四角くて黒い箱が見えた。更にその上に、板とクッションのような物があり、人が座っている。ロザリオと同じ赤銅色の髪をした美しい女性だ。
 しかし、その人型には手足が無い。だから、寺井は座っているというより、『載っている』という印象を受けた。
ロザリオが寺井のことを姉に献上するのは、貢ぎ物のようなものだという印象だった。しかし、違う。ロザリオが姉に自分を差し出すのは介護だ。寺井はそれに気付いてしまう。
 寺井は、エヴァンスの、神に愛され、そして神に嫉妬され、そして罰を受けたかのような肉体に思わず見惚れた。
 ただ、その見惚れる間に寺井の感じていたことは恋慕ではない。それは絶望や呪縛のような暗い感情。
『こんなになった私でも……、愛してくれる?』
 寺井の頭の中で、そんな言葉が響く。
 そして、展開されるヴィジョン。
 雪原に唐突に現れた、薔薇園ローズガーデン。
 白い雪、赤い恋慕。
 白い骨、赤い……血。
 脳裏の記憶光景フラッシュバックに、寺井は、身体を折る。思わず込み上げてきた吐き気を無理矢理嚥下えんかすると、背筋を冷たい汗が流れていく。
 きゅるきゅると車輪が廻まわる音。静かな稼動音かどうおんと共に、エヴァンスはこちらに近付いてくる。
 寺井は耳だけでそれを認識する。
(酷い、夢だ)
 いっそここで気絶してしまいたい。意識を手放して、そして目覚めれば自分のベッドで寝ていたという甘い展開を夢想した。勿論、夢見の悪さは最悪だろう。
 しかし、それでもこんな悪い夢が実在していることよりは遥かにましだ。
(もう許してくれよ……)
「……さすがに、こんな露骨な反応をされるのは初めてだ。不快なものだな。…………それでも、憐あわれまれるよりは幾分かましか?」
 もう一度、顔を上げる。
 左腕は肩から捥もがれて全く無く、右腕は肘から先が無い。そして、両足は、膝までしかない。そんなことに比べれば、彼女がほとんど裸同然の格好をしていることなんて、寺井にとっては些事だった。
(もう許してくれ……もう許してくれ……)
「この躰からだ……、怖いのか?」
 エヴァンスがそう問い、その言葉に、寺井は思わず逃げ出した。『ユルサナイ』と聞こえた気がしたのだ。
 今にも躓きそうな、彼自身の限界に限りなく近い速度で廊下を出鱈目でたらめに走った。
 後ろからエヴァンスが追いかけてくるような感覚。その圧に急かされ、とうとう転ぶ。つるつるに磨かれた床と肌が擦れ、きゅうきゅうと音を立てて身体に火傷を作っていく。
「寺井様!」
 ロザリオが少し不安そうな顔をしながら、小走りで駆けてくる。
「大丈夫ですか?」
 寺井はゆっくりと起き上がり床に手を付く。
「これは夢だ……悪い、夢」
 そして、そう自分に言い聞かせるように呟く。
「事前にお姉様のことを教えておくべきでしたね」
 寺井は少し黙った後、
「……これは夢なんだろ? 俺への呪いなんだろう? 夢なんだろ?」
 そう呻うめくように言った。
「その質問に何と答えるかは非常に難しいことです。確かに、寺井様が元の世界に戻られたとき、ここでの出来事を、夢でも見ていたように感じるでしょう。
 ただ、私たちが夢の世界の住人であるわけではありませんし、精神体のようなものでもありません。確かにここに実在しているのです」
「――実在?」
 寺井は、その言葉にほんの少し落ち着きを取り戻す。
「彼女は……幽霊とか、そう言ったものではないんだな」
 寺井のその言葉に、ロザリオは少し悩むような仕草をして、
「確かに、魔族には、淫魔族と悪魔族の両方に渡って幽霊科という種は在ります。ですが、お姉様は私と同じくサキュバス科ですから――」
「そういうのじゃなくて」
 寺井はなんだか生物の講義になりそうなロザリオの言葉を遮って、
「誰かの化けた姿という訳ではないんだな?」
 と聞いた。ロザリオはその問いに少し面食らったような顔をすると、優しく微笑み、「ええ」と頷いた。
「私たちは、あなたたちと身体の構造は全く違います。もしかすると人の定義する『生き物』の範疇にすら無いのかも知れません。
 ですが、私たちも、あなたと同じく実体を持った『普通の命』ですよ」
「そうか、……そう、か」
 寺井はそう言って立ち上がる。まだ寺井の胸は、ぐつぐつと溶けた金属が対流する炉のように、熱い。
「――君のお姉さんには悪いことをしてしまった」
 そう絞り出すように言う。
「いえ、私の方も過失がありました。お姉様のことを伝えておけば良かったかもしれませんね」
 そうして、寺井に手を差し出す。寺井が手を掴んだ瞬間に、ロザリオは何かを唱える。
「, ―― Homoホモ. Sanareサナーレ. Magiaマギア.」
 すると、寺井の今し方転んで出来た火傷のような擦過傷さっかしょうは、すうっと皮膚の内側に潜り込んでいくように消えた。ここまで来たら、寺井はそのくらいのことでは驚かない。
 傷の治りを確認してロザリオは言う。
「寺井様には申し訳ありませんが、お姉様のお腹が空くまでの間、この屋敷に滞在していただきます」
「拒否権は?」
 寺井は一応聞いてみる。
「もちろんありませんし、こちらに連れてくる魔術の代償として『私たち姉妹に精を捧げること』が条件になってしまいましたので、どの道、お姉様を満たすまでは帰ることが出来ません」
 ロザリオは顔面に輝く笑顔を貼り付けてそう宣のたまった。寺井はその迷いのなさにいっそ清々しさを感じた。
 そのあと、寺井は一つの部屋に通された。そこは、エヴァンスの部屋と同じような作りになっており、ベッドと本棚だけがあった。
 ロザリオは寺井が部屋を一通り見渡したのを確認して、館内の案内について説明する。
「この屋敷は丁度十字の形をしており、四階建てです。
 ここは屋敷の南館、三階になります。離れにある塔以外でしたらどこに行っても構いません。庭園も綺麗ですから是非ご覧になってくださいね。
 北館の一階と南館の二階には大浴場があります。魔術により二十四時間お湯を引き、清掃しておりますので、いつご利用になっても構いません。西館と東館の三階エリアは全て図書室になっております。お暇でしたらそちらもどうぞ。
 一応、各館に一台ずつ昇降機エレベイターがありますので、一階から四階に上がるときなどにお使い下さい。
 お食事は、南館二階の食堂に朝は八時頃、昼は十二時頃、夜は六時頃にいらしてください。あとは……」
ロザリオは、いつの間にか手に持っていた小さな紙を寺井に渡す。それは館内地図だった。
「こちらを、ご覧ください。魔界だからといって屋敷の中と庭園は特別危険なことはありませんからお気軽にどうぞ」
 ロザリオは、『屋敷の中と庭園は』という部分を異様に強調して言った。それは、言外に、屋敷の外に出たらどうなるか分からないという響きを伴っていた。
 ロザリオはそう言い終ると一礼し、「失礼します」と部屋から出て行った。

 ロザリオが出て行ったのを見て、寺井は宛あてがわれた部屋のカーテンを開けた。
 窓の外の絶景は、余りにも現実離れしていた。
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中