著作権フリー小説アレンジ
なにかしなければいけない気がしていたが、夢世界の記憶は現世に持ち帰ることが出来ないと決まっている。故に、舌の上に載せたアイスクリヰムのように記憶は解けて、消えていく。
一瞬自分が旅の途中、馬車の中で寝ていたという事を忘れ、ココは何処だ? という寝呆けた思考にとらわれた。
辺りを見渡して、馬車の中のベッドだという事に気付く。
辺りはまだ暗い。時計のようなものは見あたらないので時間は分からないが、まだ朝には早いだろう。
もう一度寝ようと目を瞑ってみたが、どうも頭の方が覚醒してしまったらしく寝ようにも眠れない。
寺井は少し歩いてみようかと何となく思い、上体を起こした。
そこで気付く。
音楽が、聞こえる。
寺井に音楽の知識はそれほど無いが、それはヴァイオリンの音色らしく、切なげでどこか懐かしい曲だった。
ふと気になり、ベッドから降りる。
ベッドは天蓋付きで、薄い生地の天幕が垂れている。いわゆる『西洋のお姫様が使っているような』豪奢なベッドだ。だが、それが同じ部屋に四つも並べられているので、何処かしら病室や保健室のような雰囲気もあった。
実はこの寝床を決めるのにも一悶着あった。ベッドが四脚しかないのに六人も居たからだ。いろいろ在ったが、最終的にはパトリシアとオレンジが馬車に入ってすぐの居間のソファで寝る事になった。
寺井は天幕を捲り、ベッドから降りると、水色の薄明かりの中、隣のベッドのエヴァンスが起き上がり、ベッドの上に座っている影が見えた。
エヴァンスの影は衣擦れの音に気付いたのか、振り返る。
「客人も起きたのか」
「慣れない寝床っていうのもあるからですかね。途中で目が醒めてしまって」
「おや、ベッドの質に不満があったか?」
エヴァンスは少し意外そうにそう問う。寺井は少しニュアンスが悪かったかと思いながら、頭かぶりを振って応える。
「いえ、とても寝心地は良かったです。ただ、あまりいいベッドで寝たことが無いので」
言ってから、寺井はなんだか貧民街に住む少年のような事を言ってしまったような気分になった。
「そうか。少し悪いことを聞いてしまったか?」
案の定、エヴァンスからはほんの少し申し訳ないような響きを伴った声が返されてしまった。
そのことが寺井にはなんだかおかしく感じられた。
淫魔の世界を統べる最強の五人の一人に気を遣われているなんて自分くらいなんじゃないだろうか。
いや、そもそも、自分とエヴァンスの出会いは、およそ考えられ得る出会いの中でも最悪に近いものだったはずだ。それだというのに、こんな風に普通に話しているのが、なんだか可笑しく、唇の端から笑みがこぼれてしまうのを寺井は感じた。
かすかに、ヴァイオリンの音が聞こえる。
「この音は?」
「狂剣が外でフィドルを弾いているらしい」
エヴァンスはそう言って天幕の薄いぬの越しに窓の外を眺める。
「オレンジさんが?」
「ああ。貴族だからそのくらいの教養はあってもおかしくは無いがね。私も少し驚きだ……。気になるなら見てくると良い」
「エヴァンスさんは?」
「私はもう少ししたら寝ることにするよ」
そう言ってエヴァンスはぱたりと倒れるようにベッドに横になる。
「少し、うらやましいと思うよ」
エヴァンスはそう呟く。しかし、その言葉にはそれほど深刻な色は無い。
「思えば私は寝ても覚めても剣の技を磨いていた。よくよく考えれば、剣の技なんてものは相手に傷を負わせる事しかできない、如何に相手をうまく殺すかという技術。そんなどうしようもないものなんだ。
私は『手』のある時から、『手』を使ってなどいなかったのかも知れない。だから、少しうらやましいよ。《狂剣》が、壊の手だけではなく創の手も持っているのを実際に『聴いて』そう思った」
エヴァンスはそう言って少し自嘲っぽく微笑む。
「こんな事を話すなんて、私らしくもないな。思いの外疲れているようだ。……もう寝ることにするよ」
「そう、ですか」
なにか声をかけるべきなのか迷った。だが、思い浮かぶのはせいぜいありふれた安易な励ましの言葉だけ。そんなものはなんてかけるべきじゃない。寺井はそう思い、中途半端に開けた口を閉じる。
エヴァンスは自分の何倍も生き、手足を喪ってからの年数も自分の生より長いのだ。そんな相手に、自分が何かを言うとするならば、それは本当にしっかりと
「ああ、お休み」
エヴァンスは
「この辺りは大丈夫だとは思うが森には入らないようにな。念のため、マーブルを持って行くと良い」
「マーブル?」
「おや、言っていなかったか。客人が選んだ剣の名前だ」
寺井はベッド脇に立てかけていた剣を手に取る。
「……マーブル」
見つめながら、呼びかけるようにそう呼ぶ。
確かにこの剣は磨かれた大理石マーブルのような刀身を持つ美しい剣だ。そのネーミングは分かりやすくはあるが、あまりにも安直すぎる様に寺井には感じられた。
「なんだか、そのままの名前ですね」
寺井は思ったままを言った。
「あまり考えずに付けた名だ。別の銘を付けても良いぞ」
どうやらエヴァンスが付けた名らしい。しかし、そうは言われてもすぐに思いつくものではない。
寺井は考えておきますと言って、剣を左腰に吊った。
「では改めて、おやすみ」
「おやすみなさい」
寺井はそういって、馬車から出た。
*
また、懐かしい夢を見ていた。
ココではないどこかの、出来事。
過去か、未来か。それとも全く関係のない世界のことなのか。
自分はそこで同い年の男の子と恋をしていた。
小さな旅をして、海を見に行った。
そんな、唯それだけの記憶。
「人は、死んだらどうなるのか。か」
エヴァンスはそこで少年と話したことを思い出す。
そこでの自分は『転生する』といっただろうか。
死んだらどうなるのかという問いに対する明確な答えは、淫魔の中にもない。
ただ、『最後の審判がある』とか『幽霊になる』とかいった淫魔の中にある一応の答えは、『死した身体は土に還り、自分たち以外の他の命の糧となる』というものだった。ある意味、夢の中の自分が言っていたことはこれに近い。エヴァンスはそう思って、目を瞑る。
しかし、今でも、そうドライに思えるかと問われれば、否と答えざるを得ないのを、エヴァンスは感じていた。
手足をもがれ、生きたまま解体され、自らの存在が死に瀕した三十五年前のあのとき。
確かに感じたのは、自我の消滅の恐怖だった。
『自我』それはどこに在るのか。
死した後何処に向かうのか。
そんな答えのでない問答がまどろむエヴァンスの頭の中を巡った。
そのことをエヴァンスのどこか醒めた意識が可笑しく思う。
二百五十二年も生きてきて、今更五つの子が怖くて眠れなくなってしまうような理由で悩んでいるだなんて、可笑しくて仕方がなかった。
*
馬車を降りた寺井は音楽が聞こえる方に視線を巡らせる。
月光を写し青く光る泉の畔ほとりに立ち、ヴァイオリンを弾くオレンジの姿が見えた。
少し離れた所にブーツを脱いでおり、裸足で波を蹴り、時折、円舞ワルツを躍るようにくるりと回る。
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中