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 相手に反応して飛び出したので、グローブを付ける暇がなく、素手拳ベアナックルだ。しかし、その拳の威力は些いささかも減じられてはいない。
 相手が剣を持っていようがなんだ。剣で受けられようがなんだ。その剣ごと打ち抜け。その剣ごと殴り斃たおせ。
 鋼の剣すら超える破壊力。それこそが『鉄拳』の境地だった。
 闘いは、エリカとパトリシアの激突と同じ軌跡をなぞる。
 オレンジは、両手に大剣を後ろに流すように持ったまま、一切構えずに突進する。パトリシアも同じく両手を後ろに逃がすように握ったまま走る。
 二人はどんどん加速していく。そして、激突した。
「鉄拳制裁メタルキャノン!」
 一瞬が何千倍にも引き伸ばされるような超加速感の中で、パトリシアは拳を振るう。
 拳は腕の力のみで振るうものに非ず、全身で『撃つ』ものだ。踏みしめた足から大地のエネルギーが走るような感覚とともに、全身を伝う衝撃が身体を波打たせる。その衝撃に同調するように必殺の拳を放った。
 必殺の拳は一瞬音の壁すら超え、円錐状の雲を纏った。必殺の一撃は狙い違たがわずオレンジの下顎に吸い込まれていく。
 下顎。
 そこは人体の急所のひとつだ。まともに当たれば脳が捩ねじれ、昏倒は免まぬがれない。
 パトリシアの拳は、オレンジの下顎に当たる。だが、その手ごたえは軽い。
 確かに当たっているはずなのに、パトリシアの拳に伝わる感覚は水でも打ったかのような柔らかな感触だった。
 パトリシアは驚愕する。
 これほどの速度。音すら超えた速度で放たれる拳を受け流すだなんて、それも、腕でいなすでもなく、ただ身体の重心の移動だけで受け流すだなんて、そんな莫迦ばかげた芸当があってたまるか。
 しかし、パトリシアがいくらその事実に驚愕し、それを認めなかったところで現実は変わらない。
 オレンジは放たれた拳の軌道の上で転がるように旋回した。そして、その旋回の遠心力を載せた一撃をパトリシアに放つ。
 ごうという空気が押しつぶされる悲鳴。
 髪を揺らす風。
 それを感じながら、パトリシアは何もすることができない。必殺の一撃を受け流されたパトリシアは体勢が完全に崩れており、取れる選択肢が何もなかった。
 すれ違いざまの裏拳バックブロウのような格好で、剣の腹がパトリシアの後頭部に叩き付けられる。
 轟音が響き、パトリシアの頭部は半ばまで潰れた。両耳からは血が噴出ふきだし、更に地面に叩き付けられる。
 いわば峰打みねうちにも似た、刃による切断ではなく剣の切れない部分での殴打。それは、命を取らない手加減の攻撃として知られるが、オレンジが放ったそれは人間なら即死の一撃だった。
「馬鹿にできない攻撃力だけど、狙ってる場所が始めから丸分かり。正直すぎるわ。そこまで正直ならどこまで速くなっても無意味ね」
 オレンジは批評するようにそんな言葉を落とす。その言葉が聞こえているのかいないのか、パトリシアは「ああああぁぁぁ」と声を漏らし地面を掻くが、身体が思うように動かないらしく、立ち上がることができない。耳からの出血を考えると、三半規管をも破壊されたようだった。
 ふさあ、と、遠心力で広がったスカートの裾が回転しながらしぼむと、オレンジは再度馬車を見つめ、飛び出した。
「,―― CAtenAカテーナ... AlchemiAsアルセィーミァス... mAgiAマギア.」
 素早い詠唱と共に、赤黒い魔方陣が無数に展開し、馬車の周囲に一気に大量の鎖が召喚される。更に、その鎖は互いに絡み合いながら巨大な壁となる。
「無駄」
 そんな呟きが壁の向こうから聞こえたかと思うと、鎖の壁が大きく波打った。そして、大量の鉄の輪を撒き散らしながら、鎖の壁は引き千切られるように崩壊した。
「うああああっ!」
 崩壊した鎖の壁と感覚が繋がっているのか、カテリナは大きく身体を仰け反らせて悲鳴を上げ膝をつく。だが、痛覚と快感がリンクしているのか、その悲鳴にはどこかしら悦びも滲んでいる。
 その崩壊点から、オレンジが左手の剣を構えた状態で現れる。どうやらその剣で強引に鎖の壁を引き千切ったらしい。なんという恐るべき膂力りょりょくだろう。
 しかし、ロザリオはそれにも動じず、オレンジを見つめ詠唱する。
「 , ―― Lapis.ラピス Magia.マギア 」
 青紫の光がロザリオの瞳に宿り、その直後、オレンジの右手の剣が翻った。
 一瞬の攻防だった。
 オレンジが振るった剣が一瞬止まり、近くで聞いた雷鳴をややスケールダウンさせたような破砕音が響く。剣先からシアンとマゼンタの二条の雷光が飛び散り、弾ける。
 起こった現象にロザリオは目を見開いて絶句する。
 放たれた魔術に対して圧倒的質量による物理攻撃の迎撃。オレンジは実体の無い魔術を剣圧で弾いたのだ。確かに魔術が物質界に作用する瞬間にその魔術と同レベルの攻撃を加えれば不可能なことではない。そういうことも起こりえるのだとロザリオも知識の上では知っていた。
 しかし、『理論上不可能ではない』ことと『可能である』ことの間には大きなクレバスが横たわっている。人間で例えるならば、『右足が沈む前に左足を出せば水の上を歩ける』というレベルのことを実践してみせるに等しい芸当だった。
 驚愕に硬直するロザリオだが、その硬直はオレンジが見逃すにはあまりに大きすぎる隙だった。
 再びオレンジの身体が飛び出す。両手の大剣は斜め下に伸ばすように軽く広げ、走り高跳びをするように身体を捻りながら跳ぶ。そして、全身の回転を載せた一撃を放つ。まともに受ければ淫魔の身体など上下に分断されてしまうほどの攻撃だ。
 だがそれに割り込むように衝撃から回復したカテリナが片膝をつきながら、左手を伸ばす。
「 , ―― Catena.(カテーナ) Magia.(マギア) 」
 地面から飛び出した半透明の鎖がオレンジに絡みつく。実体を伴わない形而上の鎖がオレンジの身体に、左の剣に巻き付き、彼女の動きを止める。
 しかし、振り上げた右手の剣は止まらない。既にロザリオは射程圏内。
 間違いなく、ロザリオの身体は分断される。さすがのサキュバスも上半身と下半身が別れるほどの怪我をすればそうそう簡単には治らない。
 寺井は既に跳びだしていた。何か考えがあったわけではない。ただ、目の前で知っている者が大怪我を負うのは、見たくはなかった。
 二人に習いガラスに飛び込む。とぷんと水面に飛び込んだような感触に一瞬全身に鳥肌が立つ。このまま溺れてしまうのではないかという恐怖も同時にわき起こるがそれを噛み殺し、左腰から剣を抜き放つ。
 ガラスから身体が抜け出る。
 オレンジは唐突に現れた伏兵、それも淫魔ではなく人間の伏兵に動揺した。例えこの伏兵が淫魔ならばこれほどまでに動揺はしなかっただろう。動揺は振るう剣の鋭さをも鈍らせた。
 ロザリオはそこでようやく我に返り、とっさに左手を盾にする。
 ずんと、ロザリオの左腕を大剣が斬りつける。鉄が肉を斬り押し分けるように食い込んでいく感触にロザリオは思わず歯を食いしばる。しかし、動揺に鈍った剣筋では両断には至らない。
「でああああああっ!」
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中