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 寺井は何気なくそう言って、それから何か失礼なことを言ってしまったのではないかと少し不安になる。
 しかし、それはどうも杞憂だったらしく、エヴァンスがその言葉に、特に気分を害した様子もなく応えた。
「それはむしろ逆だ」
 エヴァンスはそう言うと、肩と下顎の間に挟んだフォークをゆっくりと身を屈めるようにして置いた。
「半人馬ケンタウルスで在りさえすれば誰でもこのくらいの馬車を牽くことは出来る。だが、それだけでは貴族の馬車の牽き手には成り得ない。
 貴族の馬車はそれだけ襲われやすい。今回のエリカの様に決闘を申し込むのならばまだ良い。無礼であることは否めないが、決闘を申し込むのは正当な決まり事に則ったものだ。
 問題なのは、決闘を介さない奇襲による簒奪さんだつだ。
 馬車で移動しているような状況は狼藉を働く者にとっては非常に都合が良い。故に、馬車は狙われやすくなる。そんな中で誰が馬を守りながら戦えるのか? 否だ。馬は自らの力で自分の身を守り、寧ろ貴族を助けねばならない。
 自分が牽いた馬車から死者が出たとなればその一族の信用に関わるからな。
 つまり、強いのに馬車を牽いているのではなく、強い『からこそ』馬車を牽くことが出来るのだ。もちろん、かといって仕えている貴族より強いわけではないが」
 そう言ってエヴァンスはちらりと窓の外を見る。
 その会話が聞こえていたのか、それともただ寺井の目にはそう映っただけなのか。パトリシアの後ろ姿は少し誇らしげに見えた。

 *

 しばらく土色の景色が続いていたが、段々とその密度は薄れていく。郊外に行くにつれ、畑が多く見られるようになる。育てているのは、麦だろうか? 寺井は自分の記憶から麦を引き出すが、よくよく考えると植物の詳しい種類を車窓から見ただけで分かるほどの知識はなかった。
 本当に金色に光っているかのように見える美しい穂は、太陽を目指すように伸び、風が吹く度に波模様を浮き立たせる。
 そこから更に進む。
 広大な畑の中に、やや立派な家が点在していた。『砂礫されきと平積みの街』の立方体のような家ではない。赤茶けた色の煉瓦で、鱗模様の三角屋根を持っており、寺井の知識で例えるならばヨーロッパの片田舎の家と言った感じだった。
 その家はやや高めの木々に覆われている。いわゆる防風林というものだ。
 道からは石畳がいつの間にやら消えていて、赤い土を固めただけの道になっていった。
 土の赤と、麦の金、それから青空という三色が窓の外に広がっていた。
 徐々に日は傾き、空が薄く赤みを帯び始める。
 赤金青に混じり、少しずつ緑が混じり始めた。
「少し速度が落ちますよ」
 パトリシアの声が聞こえたかと思うと、馬車は少し速度を落とす。
 赤い土の道はやや湿っているようで、所々に水溜りやぬかるみがあった。
「このあたりからは、食虫花の淫魔たちが出る。気をつけてくれ。パトリシア」
 エヴァンスがそう言うと、パトリシアは「はい」と短く返事をした。
「食虫花の淫魔?」
「そうです。寺井様は食虫花をご存知ですか?」
 ロザリオが寺井の説明を求める声に応える。
「ええと、ウツボカズラとかですか」
「そのとおりでございます。ウツボカズラ、ハエトリグサ、モウセンゴケなんかが有名ですね。
 食虫花というのは『土からの栄養が足りないため虫を捕食して補助的に糧とするよう進化した植物』です。この辺りの土が赤いのは、どうしてだと思いますか? それは、酸化銅が多く含まれているからなのです。
 故に土の中の養分は少なく、食虫花も多なりました。そして、その食虫花から進化した花妖精アルラウネの淫魔が群生する場所ができてしまったのです」
 ロザリオは窓の外を眺める。寺井も釣られて振り返って窓の外に目をやると、確かに不気味な袋を吊り下げた蔦のようなものがところどころに見える。
「彼女たちはけして強くはないけれど、最も危険な淫魔達です。淫魔達の不文律や規則を受け入れませんし、封印されてしまった淫魔も数知れません」
 ロザリオがそんな話をする中、軽く慣性がかかった。
「誰だ!」
 パトリシアの誰何すいかの声が響き、車内に緊張が走った。全員が前面の窓から外を見る。全員の視線の先には、一人の女性が立っていた。
 紅あかい。
 寺井の第一印象はそれだった。
 まるで乾いて固まった血のような茶色と赤の中間のような色のドレスに身を包み、ドレスの裾はその前面が強引に引きちぎられたように裂けている。スリットからは長く細い足が顔を覗かせ、強面こわもてなレザーブーツを履いていた。
 赤毛の髪はまるで寝起きのようにぼさぼさで纏まってはいないが、ウェーブがかかっているおり、頭頂部近くには犬の耳のようにも見える「跳ね」があった。
 彼女は誰何の声にふと顔を上げると、不思議そうな顔をして、首を傾げた。
 まるで、自分が何故呼び止められたのか分からないといった調子の動作。だが、
「そんな振りをしてもだめだぞ。お前の身体から放たれる殺気、殺しきれていると思うな」
 パトリシアはそう指摘する。
 寺井にはその殺気は感じ取ることができなかったが、その場にいる寺井以外は立ち上がる赤黒い殺気に緊張を高めた。
「名をなんと言う」
 再度、パトリシアは誰何する。
「私は……、だれだっけ?」
 彼女はおぞましい色の殺気を放ちながらしかし、そんなことを言う。
 その光景はあまりに不気味だった。


二十九、自意識オレンジ
 ***

 私は、誰だ。
 そんな疑問は常に私の頭のどこかにある。
 別に二重人格というわけではない。
 記憶喪失でもない。
 私には記憶がある。
 今まで生きてきた二五〇年の歴史がある。
 だが、それでも。
 自分が何者なのか分からなくなる。
 不意に、名前すら思い出せなくなる。
 ふと目覚めたとき、
 此処ココが何処ドコなのか分からなくなる。
 見慣れた風景が違って見える事がある。
 此処で暮らしているはずなのに、
 そんな事を感じる。
 ふとした部屋の違和感。
 それはきっと昨日机の上の花瓶を落として割ったせいだ。
 机の上にいつもの赤い薔薇が無いせいだ。
 そう思うのに、それで納得できない。
 もしかしたら、自分は自分ではないのではないのだろうか。
 もしかしたら、この世界はほんの数分前に生まれたのではないか?
 私は二五〇年の記憶を与えられて、
 此処に座らされているだけなのではないか?
 もしかしたら、本物の自分はどこか別の所に居るのではないか?
 私は偽物なのではないだろうか?
 そんな不安が常に私の中に在る。
 オレンジ色に染まる街が見える。
 私の精神状態はグリーンやブルーといった安全色ではなかった。
 かといって危険なレッドでもない。
 たとえるならばオレンジ。
 私の常況はオレンジ。

 だが、剣を握ったときは違う。
 戦いの中に居るときだけは、その不安から解き放たれる。
 戦いの中、それも、命をかけた戦いは別だ。
 血が流れ、痛みに喘ぐ。
 負ければ死ぬか、封印されてしまう。
 そんな戦い。
 いや、必ずしも命や身体をかけた戦いで無くとも構わない。
 強者との戦い。
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中