著作権フリー小説アレンジ
パトリシアが小さく呟くと、引き具を支える台座のような岩が地面から引き出された。パトリシアは引き具から手を離すと、それを潜り、半身を開いて立った。
「ラピス家に対してその言葉、あまりに非礼。口を慎み給え」
「慎む相手ではないと言っているのだ。――ラピス・エヴァンスよ。そこの中に居るのだろう? この場で決闘せよ!」
淫魔同士の決闘。それを申し込むのには手袋を投げるなどの儀式的手段は一切必要無い。ただ、相手の声の届く場所で、『決闘せよ』と一言言えばよい。
「パトリシア、ほんの少し時間を稼いでくれ」
「了解しました」
エヴァンスとパトリシアは小さくそう言い合った。もちろんエヴァンスの声は馬車の内側から言ったものだったが、どうやら馬車の引き手への
「例え決闘を申し込む相手でもそのような非礼をして良いことにはならない。態度を改めよ」
パトリシアが再び叫ぶのを聞きながら、エヴァンスは車内に目を向ける。
「私が行きましょう。このような事態からラピスの方々を護衛するのが私の役目です」
「ならん」
エヴァンスはそのカテリナの申し出を切り捨てる。不満げな顔をするカテリナだが、反論をする前にエヴァンスが更に言及する。
「鎖の売女をとめよ。君は時期トニトルスのもの。それどころか側近だ。側近とは次期の当主だ。
ならばここで君が出るのは『ラピスにはもはや自衛の力も残っていない』と言うようなものだ。ラピスの権威を落としてしまっては塔に着いたところで意味はないだろう。君は自然の事故や、野生の魔獣との戦いで活躍してくれ給え」
エヴァンスはカテリナにそう言うと、ロザリオと寺井に目を向けた。
「客人にいきなり淫魔の相手をしろというのは無茶にもほどがあるし、ロザリオはそもそも戦いの経験がない。私が出ても構わないのだが、出来る限りこの姿を開示したくはない」
「……それはやっぱりその姿を、恥ずかしいと思っているからなんでしょうか?」
思わず、寺井の口からはそんな言葉が漏れていた。
エヴァンスはそれに微笑む。
「確かに恥ずかしいというのが全く無いといえば嘘になるな。だが、それは単純に『人前に出るのが恥ずかしい』という感覚と同種の意味でだ。手足が無いのが恥ずかしい。そう言う意味ではない。心配するな。
単純に現在の私の状態を知られては、後に行く手を阻まれる可能性があるからだ。多少行く手を阻まれた位で負けるつもりは無いが、時間は無限ではないし私の魔力も無尽蔵という訳ではない。そう言うことだ」
紡がれた言葉には、もう自分の身体を否定していないことが表わされていた。
エヴァンスは少し思案し、それからソファから電動車椅子に乗り移った。そして、馬車の全面にある窓の前まで行くと、小さく、パトリシアに向かって言った。
「パトリシア、頼んだ」
「了解しました」
そして、エヴァンスは大声を張り上げた。
「決闘をしたいという意志、しかと受け取った。まずは名を聞かせて貰いたい」
淫魔達がざわめく。「エヴァンス様の声だ」「生きていたのか」そんな声が口々に聞こえる
「我が名はEricaエリカ。鬼のエリカとは我の事よ。決闘を受けるまでに随分と長考したようだな。怖じ気づいたか石の『女』よ」
エリカと名乗ったその女性は、エヴァンスの事を石の女と呼んだ。本来貴族に対しては『売女をとめ』という敬称を付けるのが習わしになっており、その敬称を外し、『女』などと呼ぶのは酷い侮辱に当たる。
パトリシアは、怒りの炎を瞳に点し、両手の拳を握りしめる。
ロザリオですらおぞましいほどの怒気を瞳にみなぎらせ唇を噛む。しかし、エヴァンスはその二人の気配を感じ取り、ロザリオに向け、軽く振り向き、肘までの右腕を挙げ、パトリシアには「何も気にすることは無い。構わない」と諫める。
エヴァンスは微笑んでいた。
まるで、それはまるで、子供が言う世間知らずな暴言だとでも言いたげな表情だった。
「エリカ。エリカ。舌で滑らかに空気を転がすような響き。良い名だ」
エヴァンスはまるで先程の暴言を聞いていないとでも言いたげで、まるでこれからお茶にでも行こうとでも言いたげな親しげな口調だった。
いや、親しげというのは語弊があるのかも知れない。それは確かに害意の無い声色ではあったが、対等な関係を作ろうとする親しさではなく、子供に対してしゃがみ、目線を合わせようとするような親しさだった。
エリカはそれに気付いたのか、悔しそうに歯噛みする。
「ふん、いくら余裕がって見せたところで、三十数年の長きにわたり剣の腕を磨いてきた我に勝てる道理など無い。さあ、さあ、早く我と決闘をしろ」
「ああ、エリカ。私としても闘いたいのは山々だ。だが私も暇ではない。故に、この決闘、馬車の引き手であるパトリシアに委任させて貰う」
ざわざわと、女の壁、さらには野次馬に集まってきた淫魔達の間に波紋が広がる。「どういうことなの?」「正気じゃない」など、次々に動揺、困惑、そして畏れの混じった声が聞こえてくる。
エリカも数瞬何が言われたか分からず、ぼうっとした。そして、怒りに顔を赤くする。
虎のフードがゆっくりと何かに引っ張られるように上に上がっていき、そして、ぶつりと音を立て突き破る。長く伸びた角がその姿を現していた。
鬼のエリカ。
その姿は正に鬼だった。
「ふざけるな。なぜ我と直接闘おうとしない!」
「だから、忙しいと言っているじゃないか。だから、パトリシアに決闘の相手を委任した。彼女に勝てば君はラピス・エヴァンスを斃したのと同じ名誉が与えられる。どこに不都合があるのだ」
『決闘の委任』それは文字通り、決闘を受けた際に自分の直属、又は傘下の誰かに決闘の相手をしなければならない義務を委任することだ。
委任した場合であっても、それは「本人が闘った」と見なされ、決闘での勝率に影響する。
決闘の委任はそう珍しいことではない。しかし、この場合、あまりに異常だ。
決闘を委任されたのが明らかに戦闘要員ではなく、ただの馬車馬だ。ラピス家が馬車で中央の塔に向かおうとしているのは確実であるから今ここでパトリシアが負ければラピス家はいきなり移動手段を大きく制限される。
それだけではない。ここ三十五年間決闘の実績が無いラピス家がここで負けたとなれば、三十五年間の勝率が零になってしまう。勝率が零の家が五大貴族に残留することが出来るかといえばこれは全く有り得ないと言い切っていい。
そのような状況にありながら、何故委任を行ったのか。
波紋はさらに広がり、エリカはあまりの怒りに気が狂ふれたように笑った。
「なるほど、私など眼中に無しという訳か。いいだろう」
そう言うと、エリカは手に持った長い包みを解いた。
白い麻の布が風に煽られて大きく広がる。
そこに合ったのは長大な刀だった。人の身長ほどもある刃渡りを持ち、まるで包丁をそのまま長く大きくしたような形の異様な片刃の剣を、エリカは肩に担ぐように構える。そして、それを振るった。
ごうと、低い風切り音が鳴り、石畳の上の砂埃が巻き上げられる。
「その馬を斬り、石を砕いた鬼として五大貴族会議に向かうとしよう」
一方、パトリシアも、戦いに向けて準備をする。
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中