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 目覚めた寺井の目に最初に飛び込んできたのは、知らない天上だった。
 何故か手は動かない。
 「そのまま夢に委ねていれば良かったのに、目覚めてしまったのですね」
 唐突にそんな声が聞こえてきて、寺井は驚いて辺りを見渡した。声は女性のもので、寺井には聞き覚えのないものだった。しかし、寝ね呆ぼけ眼まなこのせいか、その姿を見つけられない。寺井は目を擦る。だんだんと周りの様子がはっきりと見えるようになってきた。ただ、やはり声の主は見あたらなかった。
 部屋の様子はまるで変わっていた。寺井は上体を起こし、まず自分の寝ている場所を見る。自分の部屋のベッドにあったのは、ホームセンターで買った安物の薄い布団だったのに、今、彼の身体を包み込んでいるのは、手首まで沈みそうなほど柔らかい上質の布団だった。
 左手から差し込む光はステンドグラスを透過して様々な色に変化しながら部屋の中に幾条もの光の筋を作っている。その光が落ちる床には、純白の草原のような白い絨毯が敷かれており、まさしく足首まで埋まりそうな高級なものだった。
 部屋の大きさも、自分の部屋の三倍はあろうかというほどで、内装も洋館のようだった。
 ここまで考えて、寺井はようやく事態が飲み込めてきたようで、要するにここは自分の部屋ではないということに気付いた。
「ここはどこだ」
 その声はなんだかいつもより小さく聞こえた。きっと絨毯が音を吸い込むせいだろう。寺井は何となくそう思った。
「ここは」
 また声がした。寺井は声のした方を見る。その辺りは仄暗く、よく見えない。
 その光が届かないその奥の方から静かな足取りで一人の女性が歩いてきた。赤銅色で柔らかくカールした髪の女性で黒いゴシック調の服を着ている。その顔はいいところのお嬢様や修道女のような優しい印象で、清楚な顔立ちをしていた。
「魔界、淫魔族自治区、西部、陽入る処トコロの朱き摩天にある、ラピス家の屋敷です」
少し早口で聞き慣れない単語が続いたせいで、寺井はそれを聞いても何を言われたのかよく分からなかった。ただ『ラピス家の屋敷』という単語だけは一応聞き取れた。どうやら、そういう人の家に連れてこられたらしい。寺井はそこまで考えて、はじめに言われた魔界という単語が、今頃になって彼の頭に滑り込んできた。
「魔界? 冗談はやめ……」

「冗談ではありませんよ? これを見てくださいませ」
 彼女が小首を傾げながらそう言ったかと思うと、その背中から何かがゆっくりと現れた。
 それは無数の蛇のような触手で、彼女の肩胛骨辺りから左右にせり出すように伸びていった。蔦ツタの成長を早回しで見たときのようだった。そしてそれらはぐちょぐちょと粘着質な音を立てながら、瞬またたく間に絡み合っていき、翼の形になった。
 色は黒に限りなく近い紫で、フォルムは鳥のものよりもコウモリのそれに近い。ただ、その表面は皮膜ではない。ぬらぬらと滑った光を放ち、イトミミズの群体のような、細い触手のようなものが蠢いている。そのせいで、その翼にははっきりとした輪郭が無かった。
 寺井はその光景に思わず、さあっと血の気が引いていくのを感じた。人とほとんど同じ姿であるのに、おぞましい翼を持つその存在が彼の中で定義付けされていく。
「あ、悪魔っ!」
 寺井の口からその言葉が出た。彼女はその言葉を聞いてほんの少し不満そうに目を細めた。
「少し違います。確かに魔族であることには変わりはありませんが、私わたくしは悪魔族ではなく、淫魔族。――サキュバスのロザリオ。モナカ・ロザリオといいます。以後よろしゅうに」
 ロザリオと名乗った彼女はそう言うと恭うやうやしく頭を下げ、スカートの両端を摘んで礼をした。
 寺井は、未だに彼女への恐怖を未だ捨てきれないまでも、そのあまりにも美しい動作に思わず見惚みとれた。しかし、それを悟られぬように、そして、自分の内に生まれた恐怖を払拭するように寺井は会話を繋げる。
「それで、俺はどうしてこんな所に連れてこられたんだ? 誘拐か?」
 その質問にロザリオは少しきょとんとした顔をすると、邪気のかけらもない顔で微笑んで、
「そうですね。身代金目的ではありませんが、誘拐は誘拐になりますね」
 と言った。その育ちのいいお嬢様のような顔と、発言の内容に激しいギャップがあり、寺井はくらくらする。そして、寺井の脳裏に不安が過ぎる。
「じゃあ、何が目的で……まさか、俺の命を取ろうって言うんじゃ」
 寺井の不安そうな顔を見て、ロザリオはまた笑う。
「そんな野蛮なことは致しませんよ。確かに、悪魔族の中にはそういうことをする方もいますが、私たちは淫魔族。そんなはしたないことは私たちの性に合いません」
「じゃあいったい……まさか、魂か!」
 そこで、ロザリオ首を横に振る。
「いえ、実際のところは事故なのです。計らずともここにお連れする結果になってしまいました」
 と言った。寺井は「だったら帰してくれ」という言葉を、すんでの所で飲み込んだ。相手が友好的だから良いようなもの、怒らせてしまったら何をされるか分からない。そんな恐怖に似た感覚が、寺井の心を支配していた。
 ロザリオはそんな寺井の様子を知って知らずか、少しだけ思案する顔をして、
「失礼ですが、寺井様はサキュバスというものをご存じですか?」
 と尋ねた。
 寺井は、自分が名前を教えた覚えもないのに相手が名前を知っているということに多少の違和感を覚えたが、状況の異常さに比べれば些細なことなので棚に上げた。
 『サキュバス』と聞いて、寺井は自分の記憶を探る。昔、RPGでそんな女性型のモンスターが出てきたような気がするが、そのくらいしか分からなかった。
「わ、わかりません」
「サキュバスというのは淫魔族の中で一番ポピュラーな種族です。淫魔、淫みだらな魔という、読んで字のごとく男の人に性的な夢を見させて、精液を啜る化生けしょうです」
 そこまで言って、ロザリオは、ふふふ、と誘惑するような目をして笑う。
 『精液を啜る』という淫靡いんびな響きに、寺井は思わずどくんと胸が跳ね、しかも、目の前の清楚な美女からそんな言葉が唐突に放たれたのだ。自然、寺井の胸の鼓動は早くなった。
「それで――」
 寺井は思わずゴクリと喉を鳴らす。
「俺の、その……せ、精液を、啜るつもりなんですか?」
 寺井は恐怖と期待の入り交じった、複雑に震える声でそう尋ねる。
 ロザリオはその姿に童貞特有の異性への苦手意識のようなものを感じ取ったのか、笑みを浮かべた。。
「ふふふ、そうですね」
 ロザリオはそう言いながら、寺井の方に近付き、ずいっと顔を近づけた。
「それもいいかもしれません」
 今にも接吻くちづけをしそうなほど顔が近い。ロザリオの呼気が寺井の嗅覚を刺激する。
「ですが、寺井様の期待には残念ながら応えられません」
 ロザリオはそう言って、異形の羽根を仕舞いながらくるりと踵を返す。
「サキュバスには不文律として、一度サクセイに失敗した獲物を二度襲ってはいけないという決まりがあるのです。それは確かに不文律ではありますが、だからといって蔑ないがしろにしてよいものでもありませんから」
「サクセイ?」
「精液を搾しぼると書いて『搾精さくせい』です」
作品名:著作権フリー小説アレンジ 作家名:西中