短編集76(過去作品)
「そういえば、私が思わず、『どこかでお会いしたようなきがする』と申しますと、彼女も同じことを感じていたと言ってましたね」
「あなたには彼女の過去が見えたのですか?」
「はい、見えたつもりです」
しばらくそれを聞いて医者は、
「う〜む」
と考え込んでいたが、
「本当は守秘義務に反することかも知れませんが、ひょっとすれば二人ともを救えるかも知れないので話しておいた方がいいかも知れませんね」
医者としてのジレンマを垣間見た気がした。人間としての理性がそこに存在すればこその悩みなのだろう。竹田は悩んでいた医者を見つめながら自分の中に追い詰められている何かを見たような気がした。
医者は話を続ける。
「自分とまったくよく似た顔の人が世界に三人はいるという話を聞いたことがありますか?」
「ありますね。でも、考えてみればそれは同じ時間の同じ瞬間において言えることなので、時代が違っても言えることなのでしょうか? 前に不思議に思ったことがあります」
「あなたはやはり面白い考えをお持ちだ。私もまったく同じことを考えています。でも、それは顔や姿じゃないですか。感情や気持ち、いや、その時に考えていることもそっくりそのままの人がいたとしたらどうなんでしょうね」
「それも同じ瞬間でですか?」
「いや、それは同じ瞬間とは限りません。違う瞬間であっても、効果は同じだからですね」
この場合の効果という言葉、それはいかにも感情を学問として考えている人のように思えて妙な気分になっていた。
「彼女は以前に何か恐ろしい目に合われたことがトラウマとして残っているように私には感じたのですが……」
「そうですか。きっとあなたには、彼女がストーカー被害者であるということが分かったのでしょうね。しかし、その先のことを探ることはできなかったんですね」
「え? さらに先があるんですか?」
「ええ、まあ、ここからが守秘義務の範疇に入るのでしょうが、しかもあなたには彼女も同時に救うことができるので敢えてお話しようかと思います」
「どのようなことでしょう?」
不安もあったが、その時に頭の中で思い浮かべた彼女が急にいとおしくなった。彼女を救うこともできるのであればと考えた竹田は、医者の言葉を待った。
「匂いというものを今までに人と連想して考えたことがありますか? その匂いを嗅げば、その人を思い出すといったようなイメージなんですが……」
この医者はどうやら、話をまわりから詰めていきたいらしい。いきなり突飛な話から入ってくるので、一瞬あっけに取られてしまう。
「今まではないですね」
そう答えながら待合室で感じた匂いを思い出すと瞬時に、彼女の顔を思い浮かべた。どうやらそれを医者は分かっていたようだ。
「あなたは彼女の出現を無意識に心待ちにしていたと思うんです。あなたは分からないまでも彼女はあなたと夢の中で会っていたんでしょうね」
「でも彼女は私の顔に見覚えがないらしいですが?」
「夢の中で見た顔は、夢から覚めると忘れてしまっていたようですよ。彼女の場合、夢の内容を覚えていることはまずないようです」
他人と夢の話などしたことがないので分からなかったが、当然自分とは夢の見方も違うだろう。人によってはすべてを鮮明に覚えている人もいるだろうし、まったく覚えていない人もいることだろう。
「私のことがそれで分からなかった?」
「ええ、ですがあなたには分かっているようですね。彼女に対して見覚えがあったんですね」
「そうです、それも過去に夢で見た記憶があるという程度なんですけどね」
「あなたは、夢の中でいつも誰かを殺していた。それは確かに殺人願望ですね。でもそれは普通の殺人願望ではない。相手は、彼女にストーキングをしている人に対するものではないでしょうか?」
「私は彼女のことを夢で見ただけで知らないんですよ」
「でも、ここで会えたじゃないですか。そういう意味では予知夢と言えなくもない。ここであなたと彼女が会えたのは偶然ではないということですね」
「私は彼女を救おうとしていたと?」
「そう、ある意味ではね。だから本当に救うためにはあなたが彼女を受け入れる気持ちが必要なんです」
確かに彼女に対して以前から知り合いだったと言われても違和感がないような懐かしさを感じる。
「確かに彼女には懐かしさを感じます」
「あなたが彼女に感じる懐かしさは、匂いから入ったものです。ですから次第に彼女のことをいとおしく思えるはずだと思いますよ」
目を瞑ると彼女を思い出していた。鼻についた匂いが次第に強くなってくる。
その匂いはまるで血のような鉄分を含んだ匂いを感じさせ、夢で誰かを殺していたのを思い出していた。そして自分が殺した相手の男の顔が浮かんでくる……。
「この顔は」
まさしくそれは今の竹田氏の顔である。自分で自分を殺していたというのだろうか?
それに気付いて目を開けると、病院の待合室に座っていた。女性は相変わらず座って下を向いている。
じっと彼女の姿を覗き込もうとする竹田だったが、彼女から漂ってくる匂いにさらなる懐かしさを感じ、何を思ったか、おもむろに立ち上がると壁に掛かっている鏡を見に行った。
そこに写っているのは年老いた自分の姿、だが、竹田氏に驚きはない。
「二人のトラウマを解消するために掛かる時間を、今ここで鏡を通して見ているだけなんだ」
と感じる竹田氏だった……。
( 完 )
作品名:短編集76(過去作品) 作家名:森本晃次