その後のこと
3
バスを降り、すっかり夕暮れに染まったバス停に降り立った。あとは家まで、5分ほど歩くだけだ。
だが俺は、家に帰りたくない事情があった。家に帰ればどう考えたって、いろいろ面倒な話をしなければならないからだ。やれ、これからどうするのだの、いつまで実家に居候するのだの、バイトは決めてもそっから先はどうするのだの、さっき受けた面接のほうが、正直まだマシなくらいの質問攻めが両親から待っているだろう。夕食時だが、それを考えると食欲も失せるくらい、憂鬱な気分になっていた。俺は考える。どうにか、その質問攻めを先延ばしにはできないだろうかと。だが、今の俺にそれを上手く回避する方法は、思い浮かばなかった。
「とりあえず、あそこのコンビニに行こう」
俺は、家までの通りを少し入ったところにコンビニがあったのを思い出し、そこに寄ることにした。立ち読みをしたところで、せいぜい30分ぐらいしか時間はつぶせないが、その短時間でも今の俺にはありがたかった。
家への道を曲がり、件のコンビニにたどりつく。店内で、対して面白くもない雑誌などを読んでいると、みるみるうちに時間がたってしまう。俺は両親に対峙する悲壮な覚悟をして、コンビニを後にすることにした。コンビニから、家への道を帰る途中のこと。すっかり暗くなった道を、ぼんやりと聴いたことのあるメロディが流れていた。
「♪~」
無意識にそのメロディをハミングして、ハッとする。俺のバンドの曲じゃねえか。思わずキョロキョロして、音の出どころを探す。どうやら、すぐそばのアパートの一室で、大音量でCDをかけているようだ。
「こんな実家の近くにも、ファンがいたんだな」
俺は感慨深くなり、思わず訪問して挨拶でもしようかと思った。だが、とあることを思い出して足を止める。うちのバンドのファン比率は、トオルが5、レンが4、シローと俺で残り1を分け合う、という状況だった。不人気のベースが突然挨拶に来たところで、来られた人は感謝も感激もしないだろう。そもそも、うちのバンドだけのファンとは限らない。数あるバンドの中で、たまたまうちのCDをかけていただけかも知れないのだ。あまりの感激の中で失っていた冷静さを取り戻し、その場を立ち去ろうとする。
そのとき、1人の女性が自転車でやって来て、アパート前の自転車置き場前で自転車を止めた。自転車の音で察知したのか、アパートの一室の窓があき、小さな女の子が顔を出す。
「ママー、おかえりー」
「ナナエ、遅くなってごめんね。今晩はシチューにしようね」
母子の会話が交わされたその直後、小さな子はふと俺をみて、いきなり素っ頓狂な声を上げた。
「あー、アキだー!」
数分後、俺はそのアパートの一室にいた。俺を見つけた女の子が騒ぎ出し、興奮して手がつけられなくなったからだ。俺は、その子のお母さん──名を明日歌さんと言った、の勧めもあってお邪魔をすることにした。
「なんか、すみません」
「いえいえ、とんでもないです」
そんな会話を交わしながらも、心配は募ってくる。
見たところ、幼い娘さんとお母さんの二人暮らし、いわゆるシングルマザーのようだが、こんな女性だけの家に、男があがっていいものだろうか。俺は、とりあえず怪しい者ではないことを証明しようと思い、バンドを解散して、ここのすぐそばの実家に帰ってきていたこと、たまたまここを通ったときに自分のバンドの曲が流れていたこと、それで感激して立ち止まっていたことを順を追って説明した。
明日歌さんは、それで合点がいったとばかりに、笑って話す。
「あの子、家で留守番してるときは、必ずあなた方のCDをかけているんです。ジャケットの写真もいつも穴が空くほど見つめてるんで、顔を覚えていたのかも知れませんね」
「そうだったんですか」
俺たちに、こんな小さなファンがいたとは驚きだった。そんなナナエちゃんは、お茶をすすろうとする俺に、さっきかけていたCDの歌詞カードを持ってくる。
「これ、歌ってー」
彼女が指差した曲は、うちのバンドで恐らくもっとも有名な曲、Dark Skyだった。失恋した気分を暗い空に例えたこの曲は、アルバムの先行シングルとして急遽作られたのにもかかわらず、レンの楽曲とトオルの詞ががっちりかみ合った名曲だった。
そんな曲を、今、一人のファンに唄えと言われている。真面目な話、唄えないこともないだろう。
だがファンが求めているのは、トオルの声による歌唱に違いない。ちなみに俺は、この曲ではコーラスすらしていない。
「ごめんね。おじさんベースって楽器の担当だから、唄えないんだ」
「ふーん、そっかぁ」
「ほら、ナナエ。アキさんに無茶言わないの」
しかたなく断ったが、なんか申し訳ないことをしたという思いが、心中にこびりついた。
「CDはお母さんが、買われたんですか」
俺は明日歌さんに聞いてみる。どう考えても、こんな小さな女の子が自分のお金で、こんなどマイナーなCDを購入するとは思えない。
「ええ、そうなんです」
明日歌さんは少し目線を落として答える。
「この子を生む前は、交際相手がいて経済的にも余裕があったのですが、妊娠中に彼が失踪してしまったんです。それで私一人でナナエを育てているんですが、やっぱりいろいろ大変で」
「そう、でしたか」
「もう少ししたら、この子の誕生日なんですけど、何にもしてあげられそうになくて。これじゃ、母親としてどうかなって……。ごめんなさい。こんな話しちゃって」
「いえ、こちらこそ、お話を伺うぐらいしかできなくてすみません」
「とんでもない。CDを買うぐらいファンだった方とお話ができて、ほんと嬉しいです。でも……」
「でも?」
「……ごめんなさい。私、レンさんのファンだったんです」
……まあ、そういうもんだよな。いっそ正直に言ってくれたほうが、すがすがしくていいや。俺は苦笑しながら、暇を告げることにした。
玄関で靴を履いて、まさに出ようとするその瞬間、あるアイデアが脳裏に閃いた。
「あの……」
俺は明日歌さんを呼び止める。
「はい?」
「ごめんなさい、恐らく近いうちにもう一度、お邪魔するかもしれません。詳しいことはその時にお話しますが、もしかしたらナナエちゃんに、誕生日プレゼントをあげられるかもしれません」
それだけ言い終えると、俺は急いで家に飛んで帰った。そして夕飯もそこそこに、自室でホコリを被っていたアコギを取り出し、弾き始める。
「あの子ったら、またギター弾いてる。本当にこれからどうするつもりなのかしら」
遠くでそんな母の声が聞こえた気がしたが、そんなことはどうでも良かった。