Unspeakable
華代はそう言って、ようやくアルトから降りて立ち上がった。
「ほんと、背の低い車は大変だわ」
「その車、大事にされてますよね」
「形見みたいなものだからね」
華代は、そのひと言で全ての不満を押し殺しているように、錆びついたドアを閉めた。
「健ちゃんは間違ってない。でもね、言いに行くなら、感情に任せてはだめよ。昔話だけど、美代子のことをよく守ってくれたでしょ。子供の時はあれでよかったけど、同じことを大人がやるときは、もうちょっと慎重にならないといけないの」
慎重に。その教訓は、人生で勝ち得たというより、真正面から顔に塗りたくられたような代物だった。華代は、それが健也に伝わっているのか確信が持てないまま、暮れていく夕日を見つめた。焦げ臭い匂いに、華代は辺りを見回した。
「なんか、焼いてたの?」
健也は首を横に振って、その事自体が恥であるかのように、俯いた。
「最近、武司が火を見るのに夢中で。赤い布切れが燃える様子が好きみたいなんです。よく、火をつけるんですよ」
「赤なんだ。うちに、染めた生地あるけど」
華代が言うと、健也は苦笑いを浮かべながら、首を横に振った。
「いや、やめさせたいんですよ」
【一九九六年 二十四年前 初秋 日曜日】
壁にかかった時計が五時を指したところで、窓の外を眺めながら美代子が言った。
「遅いね。山で遊んでるのかな」
「ほんとね」
華代は時計を見て、火を止めた。家の外に出ると、下松家の電気は薄く点いていて、青色のハイゼットバンも停まっていた。ということは、治夫も帰って来ている。華代は肌寒くなってきた山の空気に肩を震わせると、上着を掴んで下松家まで歩いた。
「すみません」
軒先に現れたのは真由子で、治夫も後ろに立っていたが、先を越されたのだと分かった。
「あの、直斗が帰ってきてないんですが」
「え?」
真由子は呆気に取られたように、後ろを振り返った。健也と武司の姿が見えて、華代は目を見開いた。
「いつですか?」
「三時には帰って来てました」
真由子は事の重大さに気づいたらしく、健也に言った。
「健也! 直斗くんと一緒だったでしょ?」
「一緒に帰ってきたよ、どうしたの?」
「家にいないの」
真由子の代わりに、華代が言った。健也が廊下を小走りに駆けてくると、自分の手を指差しながら言った。
「取りに帰ったのかも」
「何を?」
真由子が言った。華代は、真由子を突き飛ばしてその位置に収まり、直に健也と話せたらどれだけいいかと思ったが、下松家の軒先に足を踏み入れているのは自分なのだから、それは叶わないということも理解していた。健也は言った。
「帰り道に言ってたんです。手袋を落としたって。また明日探しに行こうって、家の前で別れたんですけど」
「どこで遊んでたの?」
華代が言うと、健也は山の方向を指差した。
「石が並んでるところです」
家に戻ってスニーカーに履き替えると、華代は美代子に言った。
「ちょっと留守番してて」
ハンドバッグを掴んで表に出ると、真由子と健也が立っていた。華代は、健也に言った。
「詳しく教えてくれたら、来なくてもいいから」
「行きます」
華代は、真由子の顔を見た。『石が並んでいるところ』で、場所は分かった。木が途切れて、背の高い岩が並んでいる。流れの速い川に面しているところだ。
「真由子さん。私、場所分かるから」
「分かった」
真由子は健也をその場にとどめるように、手で肩を押した。懐中電灯を持った治夫が追いついてきて、三人は山に入った。途中、思い出したように治夫が言った。
「警察に通報しといたほうがよかった」
前をじっと見据えたまま、華代はその考えを断ち切った。そもそも、槙尾家はいなくなればいいと思われているのだ。それが実現したら、どんな反応が返ってくるか。考えたくもない。息を吸い込むと、華代は名前を呼んだ。遠くまで声が響き渡ったが、返事はない。健也が言っていた岩場まで来て、高さがバラバラになった石が並ぶ辺りに、治夫が懐中電灯を向けた。
「ここで遊んでたんだな」
これからは、ここで遊ぶのは禁止にする。そう言いかけて、治夫は慌ててそれを飲み込んだ。最悪の事態なら、直斗には『これから』がないかもしれないのだ。懐中電灯を振ったとき、光が当たった先にある段のようになった石から、華代が身を乗り出していることに気づいて、治夫は言った。
「ちょっと、危ないよ!」
「足跡が見えた気がして」
華代は体を起こすと、懐中電灯の光に引き戻されるように後ずさった。真由子は言った。
「足元が悪いから、危ないわ。警察に言いましょう」
華代はうなずいたが、その場からは立ち去らなかった。懐中電灯を渡した治夫は、真由子と一緒に戻って通報した。警察と消防が駆け付け、川の中流から調べ始めた。
直斗の遺体を引き上げるまで、二時間もかからなかった。
【現在】
「ほんと、無事でよかった。すぐに連絡してよね」
まだ、十二時間しか経っていない。美代子が責める口調になったのは、美代子が起きて、用事がなければ家にいる時間まで見計らって、ようやく華代から電話をかけてきたからだった。今は、美代子の家から数分の市民公園で、直接顔を合わせている。
「どうして、すぐに連絡くれなかったの?」
「怪我もないし、消防署に泊めてもらったから」
華代のあっさりとした口調に、美代子は笑った。
「消防署って……、お母さん、若くないのに」
「あら、そういうこと言っちゃう?」
華代は、ベンチに腰かけたまま、少し居住まいを正した。
「田舎暮らしが長いと、体力は落ちないものよ」
駐車場に停められた、白のアルト。美代子の住むマンションには来客用の枠があるが、華代は長居するつもりはないと言って、そちらには停めようとしなかった。
「あの車も長いよね」
美代子が言うと、華代は苦笑いを浮かべた。
「もう、買い替え時だね」
「えー、買い替えるの?」
美代子は少し残念そうな様子で、遠くに見える白い車体を見つめた。
「思い出がたくさんある分、辛い?」
「どうかしら。乗り降りが大変なのよね」
華代は膝をぽんと叩いた。公園の遊具の間を縫うように、美代子の夫である和幸と、孫の紗代が歩いて来て、和幸が頭を下げた。
「大変でしたね。迎えに行ったのに」
「いやあ、あんな田舎。体に毒よ」
華代は大人向けに浮かべた苦笑を、すぐに笑顔に切り替えて、大きな麦わら帽子を被る紗代に言った。
「似合うねえ」
「熱中症対策」
宙に浮かんだ文字を読み上げるような紗代の口調に、華代は笑った。和幸が言った。
「泊まって行ってくださいね」
「いやあ、悪いから夕方には戻るわ。家が焼けたって言ってもね、一階建てになっただけだから」
華代が言うと、その冗談に笑っていいのか分からない様子で、和幸は美代子の顔を見た。三人の会話を聞いていた紗代が、華代の服の袖を引いて言った。
「だめ?」
「うーん、だってねえ。急だし」
「火事は急なものでしょ」
美代子が言い、紗代はその言葉に強くうなずいた。
「先のことは、分からないものなのです」
作品名:Unspeakable 作家名:オオサカタロウ