Unspeakable
思わず口に出していて、華代は唇を結んだ。貴弘が死んでから、力学はがらりと変わった。今までに、槙尾家を守るために貴弘が作ってきた壁は、作り主を失った瞬間、檻になった。ご近所の『機嫌伺い』をするなら、農業に戻るのが一番手っ取り早かったが、今さら田んぼを活用したところで、長年放置してきた土の塊に何かが生まれるはずもなかった。しかし、貴弘は『俺といれば金には困らない』と言っていて、それは遺族補償年金という形で叶えられることになった。直斗が小学校に上がってからは、貴弘のかつての同僚の紹介で、野菜の販売所に居場所を見つけた。車で一時間以上かかったが、夕方に必ず解放してもらえるという利点があった。主を失った槙尾家の生活が再び軌道に乗ったことが、集落内で既成事実となったとき、美代子が学校で『労災成金』という、新しいあだ名を貰って帰ってきた。
もう、二十年以上前のことだ。
【一九九六年 二十四年前 初秋 日曜日】
『明星鉱山、操業停止へ。七十二年の歴史に幕』
一面でないのに、表に来るよう広げて置いてある。公民館にはできるだけ立ち寄りたくない。ボロボロの木造を有難がって、『誰が建てた』とか、『どこの木』など、どうでもいいことをそれこそ百回は聞いた。華代は、すでに『回覧済』となっている回覧板を拾い上げて、中身に目を通した。十七軒の家が建ち並ぶ集落の中で、槙尾家と下松家に回覧板が回ってくることはない。そんな二軒が加賀谷家のお膝元に建っているというのも、余計に目障りなのは間違いない。回覧済になってもどこかに隠したりしないという辺り、集落の人間としての役目は期待されているということなのだろう。華代が埃だらけの作業台の上に回覧板を放って、帰ろうとしたところで、下松治夫と妻の真由子、長男で十二歳になる健也と、次男の武司が現れた。武司は十歳になるが、知的障害があって、話していると五歳ぐらいに感じる。それが追い打ちをかけて、集落内では下松家は『三人と一匹』という風に見られている。治夫が言った。
「あ、回覧板見ました?」
「はい。どうぞ」
華代が言うと、真由子はその姿形を記憶に焼き付けるように、頭から爪先までを眺めた。華代は、販売所では器量良しとして評判だった。その期待に応えるために、できるだけ身ぎれいにしている。爪が割れておらず、汚れてもいない手は目立つ。運転用の底が薄いスニーカーも、農作業をするならまず選ばない代物だった。真由子にとっては、そんな華代の出で立ちと、その目すらまっすぐに見られない治夫の両方が、怒りの火種になっていた。華代は、健也に笑顔を向けた。
「こんにちは」
「こんにちは。ねえ、直斗くんは?」
「家にいるよ。遊ぶ?」
「うん」
健也は、直斗と仲がいい。美代子と武司が同じクラスで、保健委員の美代子が武司の面倒を見ている縁から、友達同士になりつつある。健也は力が強く、美代子のことを『労災成金』とからかった同級生を殴った。相手は二学年も年少の生徒なのだから、造作なかっただろう。そんなことをすれば、いつまで経っても除け者のままだし、さらに親の立場は悪くなるだけだが、目の届かない場所で美代子を守ってくれるのは、有難かった。
「美代子のことを守ってくれて、ありがとうね」
もう二年も前のことだが、下松家と顔を合わせたら、必ずその時の話をするようにしている。特に真由子がいるときには。子供は後先など考えない。純粋な正義感だけがある。健也の誇らしい顔を見ていると、ずっと失われていた『人間性』に対する希望が、少しは蘇ってくる気がする。華代は、治夫の顔を追いかけるように視線を向けた。誰に似たのかしら? 少なくとも、あなたではないということは、分かる。真由子が埃だらけの回覧板を拾い上げて、中身に目を通し始めたとき、華代は武司に向かって、首を横に振った。木造の柱にしがみついていた虫を捕まえて顔の前に掲げ、今にも口に入れようとしているが、下松家は誰も気づいていない。
「駄目よ、それは食べたらいけないやつ」
「なんでも口に入れたらダメって、いつも言ってるでしょ」
真由子が回覧板から視線を上げて、追い打ちをかけた。華代と真由子の顔を代わる代わる見た武司は、虫を元の場所に戻したが、指の腹で平たく押し潰した。華代がその様子を眺めながら苦笑いを浮かべていると、後ろで新聞がぱらりとめくられる音が鳴った。
「あなた、これからお子さんにお金がかかるってときに、危なかったわね」
加賀谷久実。華代よりも二歳年上で、四十歳。真由子が一度『あなたと加賀谷さんとこの奥さんだと、親子に見えるわね』と言ったぐらいに老けて見えるが、お金に困らない分、お金で買えないものは神様にひと通り吸い取られているということなのだろう。華代は、その時のやり取りを思い出しながら微笑んだ。もう六年になるが、貴弘が生きていたら路頭に迷っていたと言いたいのだろう。死んでくれて万々歳という言葉のかけらでも、引き出したいのだろうか。
「ほんと、先のことって分からないですね」
華代はそう言って、回覧板から目を上げようとしない真由子に、視線を向けた。久実は、回覧板が薄っすらと埃をかぶっていることに気づいて、顔をしかめた。華代は、すでに意識がそちらに向いている久実の横顔に言った。
「あの人は、迷惑ばかりかけてたけど。大きい会社にいてくれて、そこだけは助かりました」
反応を待つことなく、健也に目で挨拶をしてから、華代は公民館の外に出た。
「あんな言い方はおかしい」
後ろをついてきた健也が言った。振り返った華代は、笑顔で応じた。今まで健也と話すときは少しだけ体を屈めていたが、十二歳になった今、同じ目線で話せるようになっていた。
「大人の会話を聞いてたら、同じようになっちゃうわよ」
「でも、聞こえてくるから」
健也が言うと、華代は昔と同じように体をかがめて、健也よりも低い目線から言った。
「そういう時は、耳を塞いで目を閉じてもいいのよ。私たちじゃなくて、学校の先生が言うことをよく聞いてね」
学校で、周りに同学年の子供しかいない状況なら、健也は自分の意見を主張するのだろう。それこそ、暴力を使ってでも。華代は言った。
「短気は損気なのよ。相手の言葉に乗って怒ったら、こっちの負けなの」
健也は、完全に同意できないし、かといって中にも戻りたくない様子で、入口の近くをうろうろしていたが、やがて中に戻っていった。大人の話を子供に聞かせる必要はない。それでも、下松家がわざわざ家族総出で回覧板を見に来るのは、子供がいれば攻撃の手が弱まるからだ。
「根性無し」
華代はそう呟くと、敷地の外まで歩いて、草むらに止めた白のアルトに乗り込んだ。堂々と駐車場に停めたら難癖をつけられるのは、分かり切っている。貴弘の最後の買い物。雪道でも危なくないよう、四輪駆動を選んだ。
作品名:Unspeakable 作家名:オオサカタロウ