短編集75(過去作品)
それを求めて出てきた旅だということを、今さらながらに思い出した康隆だった。自分を発見することで、祥子との仲が埋まるわけではないだろう。だが、何かの結論を出さなければいけないと思っているところではある。このまま何も言わずにダラダラと冷え切った結婚生活を勧めていくことが得策であるとは決して思えないではないか。
彼女の両親の顔が浮かんでくる。自分の両親の顔も浮かぶ。いくら、家同士が結婚したのではなく、自分たちの問題だと思っていても浮かんでくるのだ。居たたまれなさすらあった。
そんなことを感じながら、康隆は宿を後にすると、海の見える海岸へと歩んでいった。
そこで何が見えるというわけではない。何が待っているというわけでもない。
入り江のようになった海である。海岸には、漁船が停泊していて、その向こうには断崖が見える。
断崖から向こうは大海原が広がっていて、入り江から見る穏やかな海とはかなり違う顔を見せてくれるだろう。康隆は断崖の上にも行ってみようと思っている。そこから見る光景に何を感じるか、少し怖さもあったが、今は穏やかな海を眺めていた。
――そういえば、こんな海のような女だったんだな――
祥子を思い出していた。
しかし、もう祥子の目はこの穏やかな海とは違う。康隆もこの穏やかな海と違うものを感じている。
昨夜、隣の部屋から聞こえてきた声に反応していた自分、断崖に上ってみたくさせられる。それまでの自分であれば、断崖など気持ち悪いだけで、風が吹いてきたら恐ろしいだろうという気持ちになるだけだった。
ゆっくりと断崖へと向ってみる。次第に強くなる風に寒さを感じながら震えているが、それが寒さだけから来るものかどうか、自分でも分からない。
「ビュー」
風が靡くたびに、耳についてくる音を聞いていると、昨日から耳の奥に張り付いていて離れない女の声が思い出される。
――私も男として、まだまだなんだ――
断崖から、下を覗いてみる。大きな音が下から聞こえ、それが断崖の横っ腹に打ち寄せる波の音であることを悟っていた。しゃがみこみながらであるが覗き込んでいる断崖に、しばし目を奪われていた。忘れていた力強さを思い出させてくれる。
康隆は自分の中で忘れていた何かを思い出した。それが、自分を若返らせてくれるものであることだけは悟っている。
――妻を抱きたい――
今さら何を思うのだろう。真剣にそう感じたのだ。目に浮かんでくるのは妻の笑顔と、切なそうな康隆の腕の中の顔。それが自分を若返らせてくれた証拠かも知れない。
それを感じた康隆は、踵を返し、そこから立ち去る。そのまま一刻も早く家へと帰りたかった。そこは、先ほどまでの冷たさはなく、まるで春の日差しを浴びているような心地よさがあった。
――妻はどんな顔をするだろう――
もうまわりのことなど、どうでもいいのだ。問題は自分の気持ちである。それを妻がどう感じてくれるか。
もし戻ることができるとすれば、今しかない。康隆はその瞬間にいる。きっと妻も同じだと考えながら……。
そう、どうなるか分からないが、最後の決意だけを持って、康隆は妻の前に現われる。自分の気持ちのすべてを、その顔に浮かべて……。
( 完 )
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次