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人魚姫の憂鬱

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**** 2 視線 ****


 まるで遠足前の子供のように、昨夜はあまり眠れなかった。今日は強化試合だというのに、いつもの半分にも満たない睡眠時間。晩夏というには冷たい風に秋の訪れを感じつつ、あくびをかみ殺して学校へと向かった。
 
 今日の合同練習で浮き足だっているのは何も僕だけではないらしい。うちの部員、主に下級生が、ちらりちらりと入り口に目をやり、そわそわと落ち着かない様子をみせる。
 ――吉井が来る。
 ロッカールームへ着くなり、うちの生徒はみな、その話題で持ちきりだった。夏大会で地区優勝、その後の全国で個人ベスト5の彼が来るのだ。心が跳ねる。
 ……平常心、平常心。いつもと同じ、いつもと同じ。ただ、ちょっと人が多いだけ。
 そう己に言い聞かせながらストレッチを続ける。こちらへ向けられる視線の全てが自分のひ弱な体型を嗤っているような、そんな気がしてしまういじめられっ子気質が悲しい。
 急に、ざわざわと小さく囁き合っていた声が止んだ。こちらを見ているように感じていた視線はみな、彼を見ていた。彼を先頭に、相手校の選手が屋内プールへと入ってきたのだ。
 息を潜めて、身を縮めて。僕のことを覚えているとは思わないけど、あまり僕の存在は知られたくない。いまだに馬鹿にされながら、それでもなお水泳から離れられなくて、温かい水と思い出に浸っているのだから。
 
 彼らの到着を確認したあと、部長が適当な挨拶を述べ、コーチが指示を出す。
「1~3コースは自由形、4~6は平泳ぎ、7,8は背泳ぎで9,10はバタフライ。それぞれ200泳いでから上がること」
 その声を合図に、それぞれの種目ごとにウォーミングアップを始めた。
 
 水中へと入ってしまえばもう、何も怖くはない。無意識に止めていたらしい息をゆっくりと吐いて、そのまま自分の世界に没頭する。曲がりなりにも肺呼吸で生きているはずなのに、水中にいたまま息継ぎをする方が楽だなんて、おかしな人間もいたものだ。
 今日ばかりはさっさと水から上がって、いつもの疲労感に耐えながら彼を探す。彼は自由形だから、1か、2か、3。プールサイドに人が集っているところを見つけて、その中へ紛れる。案の定、彼の泳ぎを見学するうちの部員達だった。

「やっぱ、吉井さんはすげーよなぁ」
「体格からしてデカイしな。2年で180超えだろ? 俺らみたいな平凡な日本人体型じゃ追いつこうなんてムリムリ」
「平均はある俺らでムリなんだから、センパイは見るだけ無駄ってもんじゃねーの?」
 いつもは部員を避けている僕が、自分からその輪の中に入ってきたのが気に障ったのだろう。隠しきれない嘲笑とともに浴びせられるキツイ言葉に、彼らより小さい体をより小さくして耐える。いつもならそれですごすごと引き下がるところだけど、今日ばかりはそうもいかない。
 だって、彼がいるのだ。すぐそこに、同じ水で泳いでいたのだ。
 相変わらず、ゆったりと大きなフォームで泳ぐ彼は、魚というよりもイルカとかシャチみたいな、海原を往く大きな哺乳類のようで。僕の僅かばかりの語彙では表せないくらいに奇麗、だった。
 さすがに、前後の人との間隔もあるので、ウォーミングアップではスピードを出すことはできない。彼の前を泳ぐうちの部長は、追い立てられているように焦っているのが分かる。あんな存在感のかたまりが後ろから追いかけてくるのだ、おちおち泳いでなんかいられないだろう。ぎこちないターンをする部長に苦笑を洩らしそうになる。すると、彼は部長の後には続かずにコースの端に寄り、顔を上げて……一直線にこちらを向いた。
 目が合う、視線が絡む。
 逸らすこともできなくて、そのままの体勢で固まってしまった。
 不躾にじろじろ見ていたのが悪かったのだろうか。……昔と変わらない、むしろあの頃よりも熱を持った視線で、僕に気が付いてしまったのだろうか……。
 息苦しくなってきたころ、ふいに彼の視線が外れた。3秒? 1秒? いや、もっと短いかもしれない。だって、彼は何事もなかったかのようにコースへ戻って行ったのだから。
 一呼吸置いて、頬に熱が集まるのを感じる。赤くなる顔を隠すように、俯いたまま100数えた。早鐘を打つ心臓がうるさい。ばくばくばくばくと、通常の倍の速さで鼓動を鳴らして、否が応でも僕の気持ちに直面させる。
 
 ああ、そうだ。僕が見たかったのは、憧れの選手の泳ぐ姿なんかじゃない。
 彼が、吉井颯人が見たかったんだ。
 
 
作品名:人魚姫の憂鬱 作家名:リョーコ