人魚姫の憂鬱
**** 3 シャワールーム ****
「そろそろ試合に移るし、見学でもいいけどな。水生、体調悪いんだったら今日はもう帰っとけ」
その後はもう、上の空。プールサイドでこけるし、足は攣るし、水泳部員のくせに溺れるし……。コーチにも呆れ顔で見学、もしくは早退を言い渡されてしまった。情けない姿を彼にも見られてしまったのではないかと思うと、恥ずかしくて顔が赤くなる。いっそ穴を掘って頭から隠れてしまいたい。
見学するため、ジャージに着替えようと、とぼとぼとロッカーへと向かう。すると、そこに思いがけない人物を見つけて、思わずUターンしたくなった。
「やっと見つけた」
「よ、吉井、くん……」
「吉井、じゃねぇだろ、水生」
そう言って訂正を求められたけど、どこか間違ったのだろうか。それとも今目の前にいるのは夢か幻かもしれない。あんなに熱ーく見つめ合ったってのに忘れたのかよ、だなんて、ブツブツとおかしなことを呟いているのだから。
「颯人、だってば」
うんともすんとも言わない僕に焦れたのか、彼の方から答えを示してくる。
「はやと、くん……」
あの頃のように、名前で呼べということらしい。
「どうか、しましたか……? 試合、そろそろですよ」
「どうかしたのか、だって? それは俺のセリフ。お前、いきなり辞めただろ。連絡先も言わないでさ。なんか他に言うこと、あるだろ?」
「何もない、です。でも、ごめんなさい……」
「なら、なんで何も言わなかったんだよ。っていうか謝るなら悪いと思ってんだろ」
別に謝罪が欲しいわけじゃないし。そう言って僕の答えを待つ。
「…………」
けど、言えるわけ、ないじゃないか。言ったって、仕方がない。遠ざけられるよりは、自分から遠ざかる方が、まだ気が楽だったのだから。目頭が熱くて、鼻の奥が痛い。
「だんまり、か。……わかった、今は聞かない。ま、見つけたんだし、もう逃がす気はないから」
「じゃあ、僕、シャワー浴びるので」
そう言ってシャワーブースへと逃げる。言葉通り、颯人の目の前から逃げてしまいたかった。女の子じゃないんだ、泣き顔なんて見せたいはずがない。
「逃がさない、って言っただろ」
言葉と共に僕の腕を掴み、彼もブースへと入ってくる。
いくら僕が平均身長もないガリガリでも、男として羨ましいとしか言いようがない体型の颯人と一緒では少々、狭い。少々どころか、体が密着してもなお、狭い。
奥の方へ逃れようと体を捩じると、頭上からシャワーの粒が降ってきた。身を捻った際にスイッチを押してしまったらしい。体に当たる水滴が痛い。
「敬語は止めろ、あとクン付けも」
「ご、ごめんなさっ、じゃなくて、ごめん……!」
慌てて言い直すと、硬かった颯人の表情が柔らかく崩れた。
「そうそう。あ、でも、ごめんなさいも、減らそうな」
とりあえず連絡先、教えろよ……。
そう言って、密着した体をより一層体引き寄せられる。間近で他人の体温を感じることなど初めてで。
大きな手に頭を掴まれて、目を見開いたまま間近で見た彼の顔は、涙と湯気でぼやけていたけれど。唇に残った塩素の味と温かな体温が妙にリアルだったのを覚えている。
end 091126